『パーフェクト・ワールド』
家族的な結びつきを壊す(ように彼に思われる)ものに、ブッチは怒りを表す。しかしながら、親子関係の未発達の彼のセンスがラストに表わされる。そのことは、父が不在するアメリカの普遍性が表わされているかのようであり、パーフェクト・ワールドにおける普通の事柄であるかのように在る。
子供に銃を向けさせることは、アメリカンらしい自らが自身を守れ、というリパブリカンな習わしかと思って観ていたが、終盤に表わされるように、主人公の異常さがそこには結び付いてくる。そうでありながらも、少年にアメリカンな習わしを教え独り立ちさせるセンスもそこにはある。
保安官もよかれと四年間の少年院を勧めたのであり、ブッチもまた完全な世の中などないことを知っている。ブッチと少年が向かう旅の目的地は『冷血』の主人公が父親と暮らしていたアラスカであるが、アイデアはそこからなのだろうか。アメリカンドリームの虚しさがアラスカには表わされていた。
現代のゲイリークーパーと評され、新しいアメリカの良心と謳われたケヴィンコスナー、思えば大活躍していたのは『ボディーガード』からこの作品までの10年間。なかなかハリウッドでポジションを維持するのは大変なことであるのかな。
P.S.
レッド保安官らを乗せた司令塔トレーラーには無線があるはずなのに、見つけたにもかかわらず何故に包囲網を発令しなかったのか(森の疾走のときに壊れたのかもしれないが)、不思議であったり、ブッチが何故に逃げ出し(閉じ込められていたら逃げ出したいのが人情であろうが)たのか、彼がどこになぜに向かっているのかが説明されずよく分からなかったけれど、そんなことあまり必要なものではないのであり、表わされるそんなスピード感やらあれこれ、とてもとても“映画的”なのである。“映画”が好きな蓮見先生と黒沢清があの本でとてもこの作品を褒めていたのがよく分かる映画だった。
スピルバーグもこの辺りの年にジュラシックを創ったのであり、イーストウッドもスピルバーグも映画的回帰に走った年であったように思われる。
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