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2016年08月31日13:23

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渚にて


『渚にて』
  核フォビア、赤フォビア、ニューフロンティアへの夢への危ぶまれ、そんな時代の作品である。約半世紀前には、兄弟よ、まだ遅くない、というメッセージがなされていたにもかかわらず、アトムよ、ほとんどもはや後戻りも前のめりも出来なくなった現代となっている。現実には今だからこそ、現在性あるメッセージがある。
  メロドラマをフォルムとしている。ハリウッド映画だし、売るためにはジャンルを表わすこと大事である。そうしたフォルムが基本ありながらも、生の希求がちゃんと形づくられている。
  出会い、齟齬、男としての優しさ、女の哀しみ、待つ女と再会と燃えあがり、そうしたメロドラマのプロセスが表わされる。男はごりごりに合理性。「時間」はもうないとそのこと気にしている。女性はそうではない。「時間」はいくらでもある。愛に燃えたい。グレースケリーやテレサライトではなく、エヴァガードナーだから成せる説得性。エヴァがこの仕事を断っていても、『雨の朝巴里に死す』以後のリズ、或いはソフィアローレンなら説得力をもってモイラを演じることできるかもしれない。それでも、アメリカンな情熱はエヴァこそが表象できる。
  女性だけでなく男性だって死にたくない。サンフランシスコだけではなく潜水艦内にも表わされる厭世観。その後に表わされるレースのシーン、アステアはやりたいからやるんだと言う。生が希求される。しかし、レースのシーンですら、無機質なものが表わされる。マシーンは無機質にスピードをあげ、そして爆発する。ジュリアンが優勝するころから前半のメルボルンに表わされていた陽気さが再び戻ってくるようであっても、押し寄せる厭世観を押し返すことはできない。それは最初からずっと潜在してあるものである。華やかし頃と現代とのギャップを自然に表現できるアステア、素晴らしき(彼自身が持つイメージもそれを手伝っている)。
  メロドラマの様相にして、メッセージがしっかり表わされるのは、ドワイトとモイラが部屋で食事をするシークエンスであり、嵐で開いたドアを閉めるところを越え、ふたりがキスをする終着点までのなか、メロドラマが表わされながらも生への希求がしっかりと表わされている。
  この作品に表わされるのはホームの消滅ですらある。アメリカに帰って、誰もいないことの確認。打電の誤りを確認してモイラと再会してキス。されど、兵士たちはデモクラシー的投票によりアメリカに帰ることを決める。彼らが向かう場所、オーディエンスである我々は今此処を知っている。




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