『1941』
スピルバーグの夢が詰まった国辱的な映画である。これまで何度も観たけれど、映画を観るとき、なんともくだらない作品だと思ったり、その逆に、なんと凄い映画だと思ったりするけれど、『1941』にはそれがまさにありまくる。
ジョンベルーシが言う、東京に連れてって、そしてそれから朝日が昇るショットへの移行、まさに東京オリンピックに向けたイメージとしては今観るときっと的中にワンダフルかもしれない。
ウォーリーに過去への憧憬と未来への眼差しとしてのホームを見るスピルバーグらしさが表わされるが、今回は、スピルバーグが彼自身は1940年代の人間だと言う言葉を思い出したり、この作品以後に表わされるジュラシックパークや宇宙戦争、フックに繋がるイメージをこの作品のなかに見たりと、スピルバーグ彼自身に、ホームを見る主人公の姿が表わされるのではないか、と気付かせる今回であった。それにしてもやはり、凄い作品である。
『ガントレット』
イーストウッド人気で興行成績はよくても批評的にはあまり好評ではないと聴いたので、あまり期待せずに観たのだが、だからだろうか、とてもおもしろかった。イーストウッドを全部観ているわけではないけれども、スピルバーグのその前もその後の作品も『1941』を観れば全てが詰まっているとヒトに勧めることができると同じように、『ガントレット』にはこの前もこの後のイーストウッドの作品にも表される全てのものが詰まっていると勧めることができるものがある。ゴースト乃至レジェンドやオカルト的なものは表わされないが、リンチ、譲れないもの、意地、プライド、かつて想っていたことの儚さ、そして情婦への愛、そしてそれはなによりも愛そのものを表わしていることであり、そうした彼が常に表わしているものがこの作品には詰まっている。なによりも、これはアメリカのムーヴィーであるということ表わしている。それがイーストウッドがとてもここでは言いたいことなのではないかと想うのである。
『ダーティハリー』のように心情的に流れが納得できるリアリティーには欠けていて、ここまでなるか?という荒唐無稽なところがあるけれど、無駄な部分は削ぎ落とし、ニッケルオデオン以来のアメリカンなムーヴィーであること、常に動き続ける主人公に表わされる。イーストウッドはここではゴーストでもレジェンドでもヒーローでもなく、普通のヒトを演じる。主人公が彼自身が譲れないことを語り花瓶に花をさすソンドラロックが表わされるシーン、蜂の巣状態にされる家やパトカーやバスによって生まれるリズム、様々な乗り物によって生まれる連続した動き、それらがムーヴを生む。こゝろがムーヴするのである。彼がオーソドックスにアメリカというものを表わしたいということ、より見えてくる作品であった。
P.S.
『真昼の決闘』a.k.a ハイヌーンにおいて、ゲイリークーパーは町の皆に、悪人が町に戻ってくるから一致団結しようと説得しまくる。それを観たハワードホークスは、クーパーよ、それは違うとばい、男はそんなんじゃなか、男は闘うとばい、と『リオブラボー』をつくる。デュークたち4人は彼らだけでタウンを死守する。『ガントレット』の場合、イーストウッドは逆に、タウンに攻めていく。そうしたところも『ガントレット』のおもしろさだった。
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