mixiユーザー(id:2566286)

2016年07月26日12:27

194 view

グラン・トリノ

『グラン・トリノ』
    ぼくの伯父さん的な暖かさを持たせながらも、イーストウッドは苛ついている頑固親父を表わす。そんなレイジング・タチの様相を持ちながらも、イーストウッドは彼のテクストの集大成を表わしている。主人公はかつてのアメリカにプライドを持つゴーストである。古き佳きアメリカではない、それより後のかつてのアメリカであり、アメリカナイゼーション華やかしき時代のアメリカである。嫌な親父である彼だが、他者- それはモン族のファミリーであり、そして彼自身の内に在る他者 -を受け入れることができ、彼が想うアメリカナイゼーションを打ち立てる。
    イーストウッドは常にアンチ アメリカンだ。そしてそれが、彼が思うアメリカナイゼーションなのである。『アメリカン・スナイパー』では戦争映画を描きながらもアンチ戦争やアンチ ナショナリズムが表わされたのであり、それは『マディソン郡の橋』のどっぷりメロドラしていながらのそれに対するアンチであることにおいても同じなのである。『グラン・トリノ』においては、アンチ宗教が表わされ、アンチ ホームが表わされ、スターとして築いてきた彼がそのイメージを撃ち殺すことによりアンチ イーストウッドすらも表わしてしまう。 それがイーストウッドの表わすイストワールである。宗教もアメリカの既成価値観もが言うことのない生と死だ。彼の事実であり、リアルなのである。
    『アメリカン・スナイパー』。そう言えば、母親と子供が撃たれることによりアンチハリウッドで始まり、次のシークエンスではアンチ宗教を予想させ、そこから続くシークエンスでは銃に対する考え自体が現状のアメリカンなアイデアを表わしながらも、ラストは銃に対する価値観もひっくるめて総てのアメリカンなアイデアに対して疑問を呈する形で終わっていた。


● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 


    スピルバーグは男女愛を描かないしHなシーンもあまりない(『ミュンヘン』は珍しくセックスシーンがあったけれど、あれは純粋に生を授かるためのものとして表わされている)。そうしたラブシーンは避けられ家族愛ばかりを表わすことは集客を考えるとき、カップルの二人が観に来るよりもファミリーの四人からそれ以上の数の客が来てくれた方ががっぽり稼げるからなのである。というわけではなく、『未知との遭遇』で主人公が彼の家族に『ピノキオ』を家族みんなで観に行こうと言うように、スピルバーグにとって劇場に来るオーディエンスもスクリーンで表わされるものも、ファミリーが基本にあるからである。
    ファミリームーヴィーであること保ちながらも、スピルバーグはここ20年、残酷を表わしてきている。往年のハリウッドのクラシックのように、例えば、『戦火の馬』のラストシークエンスにおいて、『風と共に去りぬ』のタラの牧場のシーンのようなファンタジックな赤が表わされたりするものの、そこまでの過程のなか子供が銃殺されたりとアメリカの現状を警告すること表わされる。『カラー・パープル』や『太陽の帝国』において迷える子は表わされていたが、『戦火の馬』で表わされているような、残酷であるが現状であるということは一家に最後に残った子供を戦場から救い出すこと描いた『プライベート・ライアン』から今世紀にかけて、強く表わされてきているように思える。イーストウッドやスピルバーグが史実を基にしたものに関心を向けていることの1つの理由がそこにあるように思える。


2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年07月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

最近の日記

もっと見る