『ニーチェの馬』
我々のマインド、そのメディアはなにを触れるのか。近代の曙の境に、映画は浸透し宗教は廃れる。クールベの、神ではなく人の“宗教”画、タルコフスキーの閉じられた“SF”空間、或いは、ベルイマンの神の“沈黙”、カールドライヤーの“尊厳”、それらのものをこのテクストに感じるが、このテクストの独特性はシーツや窓に映るメシアや五日目の夜のシークエンスの灯されながらも揺れ消えるランプに表わされるような、記憶的造形であり、そうした痕跡。曙は裂け目をつくらずに、現実を幻想する。幻惑されるのではなく、私たちが“在り方”に触れるからそう幻想するのである。
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