ターミナル、我が家の楽園、わが谷は緑なりき (1)
『ターミナル』、『我が家の楽園』、『わが谷は緑なりき』の3つのテクストを久しぶりに観る。感動した。ヒューマニズムいいね。ところで、アプロプリエーション的な記号資本主義社会でありコンセプトから成る現代が、啓蒙から抜き出らんとする、いわばポストモダンなるもの、そうであるのならば、モダンは啓蒙のタイムであり、啓蒙というタームであり、産業化、工業化、タカアンドトシ的に言えば、アメリカかっ!?であり、そういった意味では、モダンの後に生まれるグローヴァリゼーションもアメリカかっ!?なのであり、ハナシをもとに戻せば、モダンは王族を転倒させた民主化であり、平等を求めえる啓発であり、アレキサンダーもナポレオンも成し遂げれえなかった人類解放であり、そしてなにより、国民を生むナショナリズムである、と考えるのならば、『わが谷は緑なりき』と『我が家の楽園』は確実にモダンを描くテクストなのであり、それはフォードが“The Battle of Midway”をつくったことからもキャプラが“Why We Fight”をつくったことからも察せられるのであり、それに比し、「私は40年代に近い人間だ」と言いながらも70年代から活躍するスピルバーグはモダン以後のヒトであり、多様な人々が集まるターミナルという舞台からも、フォードとキャプラが表わす帰属とは違うことあらわされている。しかし、違いあれど、『ターミナル』、『我が家の楽園』、『わが谷は緑なりき』どれも“いばしょ”と“いきがい”が交わることが鮮明に描かれるテクストである。よかった。
ターミナル、我が家の楽園、わが谷は緑なりき (2)
アプロプリエーションの今此処において、啓蒙とはなんなんだろう、アベ?ところで、『わが谷は緑なりき』はマナーが表わされ、『我が家の楽園』はアウトサイダーアート的であり、『ターミナル』はその表わされる出来事の時空間的に、出会いと別れが表わされる。いわば、他者となる自己が出逢う今此処、改められるものである。
ターミナル、我が家の楽園、わが谷は緑なりき (3)
スコセッシ、アレン、リンチの個人的なロマンに比し、スピルバーグ、フォード、キャプラは責任とロマンを描いているのかな。
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