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2015年11月29日18:38

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目のなかに見える光-スピルバーグに表される人と人との結びつきを形成する4つの徴の考察 - II

3.主人公の育まれる潜在能力
  ところで、スピルバーグにおけるエスタブリッシュ・シークエンス、或いは冒頭の方に、いま現前しながらも不在する何かが表されている。『未知との遭遇』において、砂塵のなかから第二次世界大戦に使われたらしい戦闘機の姿はただいきなり現れる。白い光に包まれた戦闘機は我々を異様なエキゾティズムへといざなうのである。『E.T.』において、我々は森の中にいるE.T.をはっきりと見て捉えることができない。靄がかかった森の先、我々の眼差しははっきりと捉えることができないE.T.を追って、まだ見えぬ何かに志向する。『シンドラーのリスト』の冒頭、オスカー・シンドラーは我々からも登場人物たちからも誰であるかを知ることができない人物として表される。オスカーが出会う出来事を見ると同時に、我々の意識は彼が何者であるか知ることに志向する。冒頭に表されるこの現前しながらも知ることができない何かは、結びつきを主人公に悟らせると同時に人々に届けるものとなるのである。そして同時に、それは主人公に内在する能力としても表される。現前しながらもそれが何か分からない対象がその姿を明らかにしていくとき、スピルバーグは成長、ないし変化する主人公の眼差しと我々の眼差しとを同一化させる試みを行う。主人公が結びつきを知る成長過程を通して、我々にもあるはずだと彼が問う結びつきを生み出し秩序立てる能力に、我々自身の眼差しは向うのである。
  スピルバーグの主人公に潜在する能力が、フォードとキャプラから継承される。分析し統合する能力にフォードが表され、想像力にキャプラが表される。主人公のこの能力は共生を生み出すと同時に秩序立てる意志であり、主人公にとっての生命力だ。主人公のこの救心力に人々、そして我々は引き込まれる。それは“いばしょ”と“いきがい”を生み出すはずの我々の潜在能力であり、見えない眼差しに自身が翻弄されながらもそれを克服することができる能力であり、実践を通して開かれる我々が持っている力なのである。 
  フォード、そしてスピルバーグの主人公は父性的存在ないしリーダー的存在としてその社会に存在している。しかし、まだ人と人との結びつきを理解していない主人公に、本当のところその役回りがまだ回ってきてはいない。結びつきとはまだなにかを知らない主人公は相手を思い遣ることができない社会と出会うときに、その社会に対する疑問を持つ。イーサンはコマンチ族だけではなく白人たちによっても荒らされた西部の社会と出会うときに、トムは虐げられた人々の抵抗と出会うときに、ワイアットは腐敗しかけているトゥームストーンの保安官を務めるとき、そしてクレメンタインと彼女を頑に拒むドクとを遠くから見つめるときに、その社会に対する疑問を表す。フォードを継承するスピルバーグにおいても、ロイとエリオットが結びつきの壊れた家族社会や暗躍するアメリカを知るときに、そしてシンドラーがユダヤ人においてだけではなくドイツ人たちにおいても結びつきが失われていることを知るときに、結びつきに対する疑問が提示されるのである。
  主人公はその社会に疑問をもっても、彼/彼女は結びつきがなにかをまだ分からずにいる。しかしながら、物語過程が進むなか主人公に本来備わった思い遣りが洗練されるとき、まだ人と人との結びつきがなにかを把握していないながらも壊れた社会の現状を分析し、社会を統合する能力が発揮される。そのとき、共同体社会が秩序立てられるのである。フォードは自分自身を超克する意志を好むと言い、悲劇に見舞われたときに登場人物はアイデンティティを熟考し“凡人”ぶりを捨てると言う。分析し統合する能力にそうした意志が表される。主人公のこの能力は、母性的存在や人々との生活の営みを通じて洗練される。主人公は人々との生活の営みを通じて、結びつきとはなにかを知り始める。そうすることを通じて主人公は国家や文明社会に馴致されるのではなく、家族や義務や正義といった崇められる伝統を勝利へと導く、ないし生き残らせることができる。フォード、そしてスピルバーグはそうした個人- individual –を讃えるのである。『捜索者』において、デビーを追い求めるイーサンはテキサス警備隊とだけではなくマーティンたち家族と協力する過程で、彼のインディアンに関する知識をテキサスだけではなく西部の秩序立てに役立てる。『怒りの葡萄』において、長男としてサポートするトムは母親に代わって家族を牽引するとき、彼らと同様に体制に抑圧された人々とともに家族の枠を超えた結びつきを築く。『荒野の決闘』において、ワイアットはクレメンタインと出会うことによって、忍冬の香水を身につけスーツを身に纏うことができる。ワイド・ショット、洗練された二人が腕を組んで向かう建設中の教会に、ワイアットの共同体を秩序立てる能力が表される。『未知との遭遇』において、息子に分数式を使いながら衝突事故の防ぎ方を教えたロイの能力は、ジリアンと向かうデヴィルス・タワーに洗練された形となって表される。『E.T.』において、トム・ジョードの母親のような女装をしたE.T.にいざなわれ、エリオットはやがて仲間たちと共にマウンテンバイクを走らせ家族を超えた大きな結びつきを築く。『シンドラーのリスト』において、冒頭のナチスを抱き込みビジネスを始めるオスカーに分析統合する能力を持つ彼の姿が表される。洗練され育まれる彼のこの能力は会計士イツァークやヘレンの助力のもと、ユダヤ人の命を助けるホーロー鍋工場に表される。
  キャプラ、そしてスピルバーグに誠実さとは何かを大人たちに悟らせる子供が持つ想像力が表される。都会が誠実さの欠けた社会だということを知らないキャプラの主人公は、物質主義社会に翻弄されるときそこがどういった社会であるかを知る。ジョージはポッタースヴィルに迷い込むときに、ロングフェロウは金を無駄遣いする都会人たちや失業農夫たちと出会うときに、ジェフは少年村の建設予定地がダム工事用地として売り込まれていることを知るとき、そして議員を除名されようとするときに、そこが誠実さの欠けた社会だということを知る。キャプラを継承するスピルバーグにおいても、主人公の眼差しが捉えた国家の暗躍やナチスの非道に誠実さを欠如した共同体が表される。キャプラのアレゴリーに表される都会はスピルバーグにおいて我々がより身近に感じるはずの物質主義社会となって表される。しかし、思い遣りや誠実さといった精神性よりも金銭欲や争いごとを増幅させかねない物質を尊ぶ社会で我々が生きていることは、変わることなく語り継がれている。誠実さとは何かを悟らせる子供のような想像力が表されるとき、我々の眼差しは、より本質的な問題である誠実さを忘れかけ不誠実さを生む人々自身を捉えるのである。
  スピルバーグに継承されるキャプラの想像力は、主人公に内在する子供の眼差しとして表される。子供は何も知らないが故に、夢を見、想像する。我々は成長する人間としての素地を彼らに感じる。 そして子供は正直だ。"FRANK CAPRA INTERVIEWS"においてJames Childsの「(『スミス都へ行く』)のスミスは子供か?」という質問に対して、キャプラは「そうだ、彼はこう言うだろう、"・・・私は子供だ。あなたのような学識のある人間ではない。私はある意味、子供だけど、別の意味では一人の男だ。私は悪が神聖な場所を侵すのを見たくはない。" 彼は子供のように喋り、正直な事を言う」と述べる。"THE POLITICAL COMPANION TO AMERICAN FILM"においてPeter RoffmanとBeverly Simpsonは「(映画に描かれる)町と都会の二項対立は、アメリカの苦悩を表す。不況の時代にしばしば表されるのが、不正行為や堕落である」と言うが、キャプラが描く都会もまた堕落の場所として表される。一方、主人公がいたスモールタウンは勤勉さと純粋さに価値がある場所であり、主人公は誠実さを忘れてしまった都会の大人たちにスモールタウンの誠実さを届ける。“スモールタウンの誠実さ”とは主人公に潜在する智、すなわち結びつきを生み出す想像力である。スピルバーグが表す現代において、もはやそうしたスモールタウンは存在しないだろう。しかしながら、彼が表す子供のような主人公には、キャプラが表した誠実さが確かに継承されている。誠実さは子供の素朴な性格として、いまも息衝く。想像力はgirlとの愛を通じて育まれ、彼女との営みを通して想像力が結びつきを育むことが表される。主人公は想像力を通して、大人たちのエリート体制に屈することがない個人- individual –となる。と同時に、主人公は人々がそうした個人であることを望むのでもある。キャプラ、そしてスピルバーグは個人を謳い尊ぶ。『素晴らしき哉、人生!』において、マリーたち家族と生活を営むジョージの想像力は、低利で住宅を供給し人々のそれぞれに即した能力を引き出す才能に表される。『オペラハット』の利益が生まれる切手の絵を描くロングフェロウは、無駄に経営されるオペラ・ハウスの封鎖を決定する。そして、ベーブの都会での悩みに気付く彼は、都会の詩人たちに本当の芸術を教え込むことができる。『スミス都へ行く』のクラリッサとホームメイド・ジャムを分かち合うジェフの想像力は、ボーイ・レンジャーの協力のもとスモールタウンとワシントンを悪政から救い出そうとするときに表される。『未知との遭遇』のロイの想像力は、ジリアンとともにバリーを探すと同時に「星に願いを」求めデヴィルス・タワーに向かうときに表される『E.T.』のエリオットの想像力は、少女と出会うと同時に実験材料にされるカエルたちを助け出すときに表される。『シンドラーのリスト』において、赤い服の少女やヘレンと出会いユダヤ人たちとより誠実に接することができるオスカーに想像力が表される。ナチスから逃げ切りトイレに隠れることが出来る少年に、光が降り注ぐ。光は主人公や人々に内在する子供の眼差し、その生命力を尊ぶのである。生命力が独立心を引き出し誠実さもって成長することを託す。
  共同体社会を秩序立てる能力も想像力も実践のなかで顕れる。ムーヴィーに表される主人公の躍動を見るとき、我々は彼/彼女の精神性、その能力を知る。主人公ないし作品に同一化した我々はその躍動する彼/彼女自身に、社会のリーダーとしての資質が備わっていることを感じるはずなのである。分析し統合する能力と想像力は主人公に潜在する能力だ。この能力は、結びつきを生み出すと同時に秩序立てることができる。主人公はこの能力を母性的存在や女性、そして人々と結びつきを築き上げるときにさらに成長させる。我々の眼差しは主人公が起動させる運動に巻き込まれ、いま此処にあるはずの結びつきを見て感じていく。そのとき我々は、結びつきを生む誠実さや思い遣り、すなわち我々の共同体社会を育む生命力に目を向けることができるのである。

4.主人公が結びつきを再生させると同時にさらに大きな拡がりを生む契機 
  “いばしょ”が映し出される過去の憧憬と未来への眼差しが見つめる“いきがい”に、主人公が求めてやまない結びつきが表される。主人公の自己実現のモメントは、“いばしょ”と“いきがい”が結びつくときに表される。このモメントには人々が彼らの間にある垣根を取払い、大きな拡がりがある結びつきを築く契機、そして主人公が彼/彼女自身の能力を人々の眼差しを通して知る契機が表される。我々の眼差しもまたこの大きな拡がりに参加し、我々も持つはずの能力と出会うことができる。このモメントはダイブ、すなわち飛び込むことによって表されると同時に、エンブレイス、すなわち抱擁によって表される。ダイブはキャプラから継承されエンブレイスはフォードから継承される。
  キャプラのダイブは主人公が咄嗟に人々を助けに向かうときに表される。ダイブに勇気をもって歩み寄ることができる誠実さが表される。ダイブを通して垣根が無くなる共同体、そして成長した主人公の姿が我々の眼差しに捉えられる。主人公はこのとき、未来への眼差しが見つめる理想が何であるかを知る。主人公が見つめる理想、それはスモールタウンの人々の誠実さが生み出す結びつきであり、想像力によって結びつきを築く彼/彼女自身の姿である。主人公は彼/彼女自身が持つ誠実さを人々の眼差しを通して知ることができる。そして、この誠実さは人々が本来持つものとして表されるのだ。都会の大人たちが忘れかけた誠実さを思い出すとき、いま此処に人々の間にある垣根が取り払われた共同体が誕生する。『素晴らしき哉、人生!』において、ジョージは天使クラレンスが溺れる川に飛び込み彼を助け出すとき、彼自身が存在しない不条理な世界ポッタースヴィルと遭遇する。このとき、ジョージが助けると同時に助けられる人々の眼差しを通して、彼が見たいと願っていた誠実な人々の住む世界がこのスモールタウンであることを知る。『オペラハット』において、ベーブの誠実に愛していると言う言葉に応えるかのようにロングフェロウがシーダーに咄嗟のパンチを浴びせるとき、彼は失業農夫たちを助けることができる。そして同時に、都会では狂気としてしか映らない誠実さが、実は民衆の大義であることを人々に悟らせることができる。人々は垣根を取り払い、歓びを分かち合う。『スミス都へ行く』のジェフは議事堂に乗り込み、“隣人を愛せ”という大義を政治家と人々に向かって演説する。ペインが失われた大義を思い出すとき、スモールタウンとワシントンの垣根が無くなる。
  エンブレイスがフォードに表される。エンブレイスは相手を受け入れるための抱擁である。エンブレイスには、いかなる偏見もなくし相手を受け入れる主人公と人々が表される。エンブレイスが表された後、主人公と人々は大きな拡がりがある結びつきを築くことができる。エンブレイスに思い遣る信念が表されるのである。『捜索者』において、デビーを抱き上げるイーサンに我々は、白人とインディアンの間にある垣根を取り払う主人公の姿を見ることができる。ラスト・シークエンス、デビーをジョーゼンセン夫妻に預けたイーサンは閉じられたドアの向こう、大きな拡がりを求め旅立つ。『怒りの葡萄』において、トムは母親に人々に団結を呼びかけるため旅立つことを打ち明けるとき最後に“people”と言う。このとき、トムははじめて人々を受け入れることができる。ラスト・ショットの「永遠に生きていく。民衆だから」と言う母親に人々の結びつきに向けた信念が表され、西に向かって走り続けるジョード一家がいま此処に表される。そこには思い遣りもって相手を受け入れる社会を築く信念が顕れる。『荒野の決闘』のOK牧場の決闘のシークエンス、ワイアットたちとクラントン一家を覆う砂煙は、ドクも含む結びつきを尊ばない人々を消し去る。友人の死を看取るワイアットにエンブレイスが表される。続くシークエンス、砂煙は消え去り、我々はワイアットとクレメンタイン、そして二人の間に続く先細になる道に、家族的な繋がりをも超えた大きな結びつきへの希望を見る。
  ダイブは人々を助けに向かい誠実さをもって人々の垣根を取り払うことであり、エンブレイスはいかなる偏見もなくし思い遣りをもって相手を受け入れる抱擁である。ダイブとエンブレイスがスピルバーグで結びつく。ダイブとエンブレイスが主人公の求める“いばしょ”と“いきがい”が結びつけるのである。主人公と我々はいま此処に、冒頭に表された現前しながらも不在の対象が何であるのかを見ることができる。相手を思い遣りもって受け入れ誠実に歩み寄る信念が、いま此処に顕れる。過去への憧憬と未来への眼差しは、大きな拡がりに向けた信念として同じ地平線上で結びつく。我々はいかなる垣根も取り払われた結びつきを、いま此処で見るのである。『未知との遭遇』において、ロイは『素晴らしき哉、人生!』のジョージのように、ギリアンのエンジェル、バリーと出会うためにデヴィルス・タワーに飛び込む。デヴィルス・タワーでロイとマザーシップから出てきた宇宙人は微笑み合う。『捜索者』のお互いを受け入れることが出来るイーサンとデビーのように、クロード・ラコームと宇宙人は右手を使いコミュニケーションをとる。ロイは成長するバリーと過去にいた海軍飛行士たちの帰還 – 少年も飛行士も結びつきが脆く崩れやすい時代にいたのである - を見つめる。過去と未来がいま此処で結びつく。選ばれし者を乗せたマザーシップが「星に願いを」が奏でられるなか、星空を昇る。この社会の父性的存在の回復を、我々は結びつくことへの信念をもって見つめることができる。選ばれし者であるロイと人々、そして我々の眼差しがいま此処で結びつくのである。『E.T.』において、ダイブが仲間とともに月に向かってジャンプするエリオットに表される。そしてエンブレイスが、靄がかかった森のなか、「イツモココニイル」とエリオットの額に触れるE.T.の光る指先に表される。いま此処で子供と大人、或いは人間と宇宙人との間にある垣根が取り払われる。エリオットのペルソナを乗せて飛び立つ宇宙船が空に残す光線には、我々の大きな拡がりに向けた信念が表される。『シンドラーのリスト』において、ダイブがユダヤ人たちを助けるべくアウシュビッツに向かうオスカーのメルツェデスに表される。そしてエンブレイスが、静謐と陰影が溶け合う収容所内、オスカーがユダヤ人たちから受け取る指輪に表される。いま此処でユダヤ人たちとドイツ人たちの間の垣根が無くなる。我々の大きな拡がりに向けた信念は、過去を生き未来に生きるユダヤ人たちがシンドラーの墓に積み上げる石に表されるのである。ダイブとエンブレイスを通して、主人公と我々の眼差しは結びつく。過去の憧憬と未来への眼差しは、いま此処に向けた信念として結びつくのである。
  人々はいま此処で相手を受け入れ歩み寄る。ダイブとエンブレイスを通して、主人公が求めていた“いばしょ”と“いきがい”が結びつく。我々の眼差しは垣根を無くした大きな結びつきを見つめる。過去への憧憬と未来への眼差しが結びつく地平線上、いま此処に我々が見るものは、民衆が助け合う姿である。此処で主人公は、身近にいる人々の尽力や思いやりをあらためて知ると同時に、彼らがいかに主人公を必要としている、或いは主人公が彼らのために力を尽くさなければならないことを知る。過去への憧憬と未来への眼差しは結びつき、共同体ははじめに見たものより大きく、そして力強く表される。いま此処に我々が信じる家族的な結びつき、その大きな拡がりが表されるのである。
5.目のなかに見える光
  目のなかに見える光、それは家族的な結びつきに向けた思考であり大きな拡がりに向けた希求である。そしてそこには、我々の可能性が表される。家族的な結びつきに向けた可能性が顕れるのである。ムーヴィーを観客の見方を規範化させる資本主義的なヘゲモニーと捉える考えもある。しかしながら、ムーヴィーには仮現が表されているだけだとは必ずしも言うことはできない。観客にとってムーヴィーとは仮現である以上に、再現を超えて善の快感をもたらす真のリアリティ表すものだと言えるはずだ。我々が劇場空間に戻ってくるのは、そこに真に家族的な結びつきに向けた希求が表されるからであり、我々がそれを求めているからである。我々の眼差しは恣意的に物象を与えられるのではなく、可能性を求め欲望する。フォードとキャプラを継承するスピルバーグのムーヴィーは、4つの徴を紡ぎ我々に忘れかけているものを標してくれる。“真心”は過去の憧憬に映し出され未来に向けた眼差しが捉える信念として、結びつきを育む思い遣りや誠実さを照らし出す。人々は結びつきを育むことが出来る。相手を助け、そして受け入れることが出来る。垣根を取り払い共生する可能性、すなわち“真心”に向けた欲望がそこに顕れるのである。
  可能性がいま此処に顕される。スピルバーグはエスタブリッシュ・シークエンスの先に、我々が忘れかけているものを見つめることを希求する。彼は我々に、結びつきを問うためにドアを自ら開けることを欲するのである。スピルバーグのテクストには誠実さや思い遣り、人々の助け合い、そして彼らを助ける主人公が描かれると同時に、壊れかけた結びつきが表される。コミュニケーションの欠如と世界の欺瞞という我々に存在し続ける問題と、我々は対峙する。そこで我々が見る(= see)ものとは何なのか。壊れかけた結びつきの社会で生きざるえない我々は、信頼の回復への願いをそこで知る(= see)。 目のなかに見える光、それはギリギリの状況でも誠実さが生む結びつきを願い、それを叶えようとする我々の姿なのである。それぞれ違った断片が同じ方向に集まっていきながら、一つの調った形になろうとする、しかし調った形というものは幻想にすぎないのか。フォードとキャプラが描いた結びつきが、スピルバーグにおいていま此処で問われる。そしてその問いは、フォードとキャプラ、あるいはグリフィスから日常に在り続けているのである。



キーワード:テクスト構造分析、アメリカ映画、共同体、自己実現
参考図書
Lester D. Friedman and Brent Notbohm, STEVEN SPIELBERG INTERVIEWS (University Press Of Mississipi/ Jackson, 2000)
Nigel Morris, the cinema of STEVEN SPIELBERG empire of light (Wallflower Press, 2007)
Gerald Peary, JOHN FORD INTERVIEWS (University Press Of Mississipi/ Jackson, 2001)
Leland Poague, FRANK CAPRA INTERVIEWS (University Press Of Mississipi/ Jackson, 2004)
Andrew Sarris, THE AMERICAN CINEMA THE DIRECTORS AND DIRECTIONS 1929-1968 (The University Of Chicago Press, 1968)
Gary Crowdus, THE POLITICAL COMPANION TO AMERICAN FILM (Lake View Press, 1994)
『ジョン・フォードを読む 映画、モニュメント・ヴァレーに眠る』リンゼイ・アンダーソン著 高橋千尋訳

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