『勝手にしやがれ』(ゴダール;1960)À bout de souffle/Breathless
冒頭でクルマを盗んだミシェルは、女を放って、そのまま疾走。その逃避行、パトリシアとのことばかりの想いがナレーションに綴られる。パトリシアのツンデレに対して、凹んだりサイコーだと言ったり、終始アタマんなかは彼女のことでいっぱい。志向対象のパトリシアはジーンセバーグによってコケティッシュに表され、彼が言うサイテーに反した生を彼ともどもテクストに形成する。シュルレアリストに見放された巴里を、ゴダールは生々しさに考察する。
巴里の民俗学として、シロフォンなジャズに、ポリスを撃って逃げた後のシークエンス、ノートルダム寺院はおさえられ、パンショットの途中に凱旋門もしっかりおさえられ、朝のシーンのエッフェル塔もおさえられ、シャンゼリゼもコンコルドもおさえられる。また、巴里の風俗的なこともそうである。生活が表わされる。人が表わされる。そのトポス、明白に在る。生は都市空間のなかで、ジャングルと同様の活き活きさを表わし、ベベルは都市空間に次から次へと飛び回るチンパンジー、プリミティフなミシェルを生きる。記録され表現される。
ジーンセバーグは逃避イズムのイコンであり、パトリシアはロマン、ミシェルのLove and Hatred の対象となるピンナップガールである。『悲しみよこんにちは』のパートIIだということは、ゴダールの嘯きだと思っていたけれど、文筆家を夢見るパトリシアあらわされることでまんざら嘘ではないこと思えてくる。ラストの30分に『中国女』や『ウィークエンド』と同様に、学びゆく女性が表される。メルヴィル演じる文化人はヌーヴェルヴァーグの先駆者だからだとしてキャストされただけなのではなくコクトーの弟子筋的なところによる起用もあるのではないか。質問するパトリシアに理解されるような現代女性の男性からの自由、そして彼女が尋ねる「人生最大の野心とは?」に対する「不老不死で死ぬこと」は、コクトー的なセンスである。しかしながら、コクトーをふまえながらもゴダールは、決して過去に向かない。シュールレアルの回帰を彼は求める。記者会見の後、パトリシアは三文小説のヒロインのように犯罪者になっていく。彼女はやがて裏切るが、彼女が理性に帰るということではなく、「裏切り」もまたパルクフィクションのなかのクリシェである。ピンナップガールであることは終わり、生を最初から得ている。
記憶は偶発的なものであり、観念の外に在る。都市空間の記録であり、我々はそこに生きながらにして超え出ている。エキゾティズムは未知のディスタンス、わたしたちは他者を形成する。シュルレアリストが忘れてしまった都市の探訪があらわされるとき、知らない巴里は未知のディスタンスに喜怒哀楽を描く。我々はそこに、内在する他者という距離を触覚する。
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