大人は判ってくれない同時代性を共有する若者たちは、市民社会の時間を生きる。アントニオーニの不毛はその場所にはない。市民社会は謎であり状況だけがある。マルセルカルネの神秘はもはや現代社会にはないが、カルネと同様に社会にはロマンはのこっている。シネマはロマンもとめ、“現実”は現実に浸食すること試みる。銀幕は現実を反映することはなく、状況に向けると同様の参加をしめす。この試みはイリュージョンに逃避することないロマンだ。ゴダールのロマンは、この共同体社会を超えたトポスに愛を希求する。
状況は無常のもの。愛の集会(64)において市民社会の実存が在る。オレステイアの覚書(70)には神話が表わされるのではなく、人間が捉えられる。オイディプス(67)はイコンではない。ロマンである。神秘はない。合目的性ももたない。運命ではなく、それは私たちのモノ。銀幕のアウラは神としての物自体ではなく、自然である物自体として発光される。第三世界のエキゾティズムは、市民社会のエモーションあらわし、このディスタンス、未知にして無常のモノ、生を謳歌する。
ベルトルッチの影は仮象ではなく、内在する観念だ。絶対正義の人間性は仮象でしかない。ブルジョワとインテリは影に灯され、かき消される。人々はそれに手を伸ばし感じようとする。暗殺の森(70)のなか、消えかかるロマンはクエスチョンに包まれ再生する。影に灯されるとき、ヒトのこゝろには不安が宿る無常地帯。無常な時代のそのころ、たのしい知識(68)を得たゴダールの参加は、あたりまえの映画(68)にプラウダを考察/表現し万事快調(72)に進む。パゾリーニは観念を払拭し、身体/精神をあるがままに表わす。ふたりはロマンをダイレクトに表わす。しかしぶっちゃけ、ロマンは“現実”において失速している。時代は確かな変化のなか、ベルトルッチのロマンは疑問を照らし出す。観念に支配され自己を喪失する人々は、影を触覚する。
無常地帯が銀幕のアウラに照らし出される。疑われるこのセカイというトポス、パゾリーニは消え去り、スキャンダルと不毛地帯が三色旗の地に残る。ロージはイストワールから離れるかのようにエボリへと向かう。ベルトルッチもまた不毛の土地へと向かう。過去へと、或いは文化的フィクションへと、政治から離れた人間が見つめられる。人間はさらに疎外を感じる、しかしそれでも、人間の普遍性は我々がいるこの場所にアウラとして在るはず。神秘はない。そして、合目的性ももたない。そのヒカリ、ReelはRealに我々が創造しているもの。“現実”は現実に浸食し、クエスチョンを語らしおん。疑問は見つめられ、ラテンの血はまだ騒ぐ。ゴダールは勝手に逃げろと言い放ち、パッション(82)あらわす。世界は誠に無常地帯となっている。“現実”という異郷の地を我々は触覚している。
異郷の地で、愛は希求される。我々は“現実”に参加する。繰り返される時代などなく、ロマンは血となり肉となる。腹へった。恋したい。ラテンの血がさわぐ。疑われるこのトポスに、人間は生きているのである。パゾリーニは謎とスキャンダルとして、今此処に生きている。ゴダールが遺作を何本も創るとき、彼岸への架け橋はエモーションとして顕れている。そして、ベルトルッチは若かりし頃を懐かしんでいるのでもその精神性の再帰を描いているのでもなく、拭いきれない観念が今も此処にあること顕している。影が血を灯すとき、死は訪れることがない。異郷の地を触覚するひとつひとつの対象として、我々は“現実”に参加している。ロマンが今此処にある謎の社会に顕れる。
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