市民社会において“物自体”を3人のテクストに考える。パゾリーニは、市民社会での、個と個との関わり方に関心がある。彼は社会、或いは供儀に関心がある。男性であろうと女性であろうと、主人公は神話的な人物である。しかし、アウラはない。神秘は内在されない。アッカートネ以来、主人公は乞食のような人物である。自由を求め運命に撲殺されるのだろうか? 共同体を超えたトポスに愛を希求する。
ゴダールは個の在り方、その実存性であろう。社会制度において、ある役割をもった個の実存性。娼婦であったり、主婦であったり、カノジョであったり、と。男性は社会でのそのポジションが分からない。高等遊民然としたアウトローである。共同体を超えたトポスに愛を希求する。
ベルトルッチは社会ないし個にもたらせられる観念に関心がむく。女性は未知に恐怖しながら関心を抱く。男性は観念に支配され自己を喪失する。観念は(国家に表象される)近代社会によってもたらせられる。共同体を超えたトポスに愛を希求する。
共同体を超えたトポスに愛は希求される。ハリウッドの逃避主義でもイリュージョンではなく、現実をぶつけ観賞者みなをオイオイ泣かせるべくカタルシスを引き出すのではなく、ゴダールとパゾリーニはアウラ(神秘性)を排した「物自体」として現前させる。作者の眼差しとして、パゾリーニには闇やスキャンダラス、あるいは悲劇性、というよりユーモアが際立つ。『意志薄弱な男』のワンワンと吠えながら喋る犬を見よ。『カラビニエ』の同世代の家族構成員を見よ。ゴダールは謎の時間に生きる若者たちの映像詩であり考察であり、写し取りと表現である。ユーモアがある。ユーモアは皮肉として起こるのではなく、煽情としてある。
ユーモアはスクリーンと観賞者の間に未知のディスタンスがあるから起こるのである。そうした或るエキゾティズムに煽情は生まれる。未知のものに生はある一方で、生を写し取り切り貼られることにより当然に生々しさがある。スキャンダルや悲劇は「人間」であることにより生まれる後天的なものである。ユーモアという先天性と生々しさを得る後天性は表と裏との関係となり、転倒しながらお天道様のもと「人間性」としてあらわれる。一方、ベルトルッチはゴダールとパゾリーニと違って、感傷性をあらわす。それはもちろんエモーションを引き出す演出がもたらすことであるが、同時に、物語もまた見/視せ聞/聴かせ感じさせる。ベルトルッチにひたすら表わされる影、そこには悲劇とスキャンダルが在る。イストワール(歴史/物語)には観念が横たわる。ベルトルッチ、“観念”性が強いのだろうか、というより、取り憑かれているかのようにである。そしてそれが、「人間」として在るパゾリーニの狙いなのであろう。
寓意にファシズムが在る 観念にファシズムが在る
時代は扇情に在る

これはイコンではない
シネマだ
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