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2015年07月24日16:57

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邦画ちょこっと覚え書き14


『愛と誠』(三池崇史;2012) 
  対で考察するのが常だけど、黒沢清を観るときは三池崇史もついつい観てしまう。『リアル〜完全なる首長竜の日〜』のパケと『愛と誠』のそれは似てるってもんだから、一緒に観てしまう。
  スコセッシのことをただのスタジオの監督に成り下がったという言う声も聞き、親戚でもないのにそう言われるのは心苦しい、当たっているかもと不安に感じていたものの、最近は、スコセッシはスタジオの監督になってもやはりユニークなのだと思ってきている(註1)。けれど、三池は作品を創り続けることによりどんどん成り下がりになってきてるように確信してきている。しかし、三池の今回のテクスト、ヨカッタ。かつての彼のテクストを思い出させてくれる。
  なんでもありの時代が故、ハイジも巨人の星も明日のジョーもおちょくられまくっても“あり”な時代における「愛と誠」であるが、アホな感じで突き進みながらも、ラストの方になると意外と感動。一青窈とかりゆし58の音楽、余貴美子の終盤のアクト、妻夫木聡のラストの方の死ぬときの微動だにせずの表情がそれには大きく貢献している。そうした貢献は大きいのではあるけれど、三池は「愛と誠」を上手く料理している。かつての彼の活気がこのテクストに感じられる。ラストはまるでDEAD OR ALIVEシリーズっぽいし、ここで言いたいことは『オーディション』ですでに言ったことでもあるしで、かつての彼のテクストの焼き直し的なところがある。そうではあっても、私的には彼の詩的なエロスを感じてヨカッタのである。純喫茶のシークエンスで、メイドになった愛が首をまわすところ、グシャリと音が鳴る。その音はまさに三池崇史のエロスだと言える。

  虐げられ試練を求める勘違い女は、とっても昭和的である。助けながらもピンチに陥れる、ってより、慈愛を届け試練を与える母性である。母性ってより慈愛itselfってな感じだろうか。Anyway、黒沢清と同様に世界のミイケもいつもまた、女性ではなく母性を表わす。そんな慈愛的な母性を、他の三池のテクストの男性主人公と同様に、大賀誠は追い求める。彼が東京に来た理由はそれである。解放や成就へ向かう誠の、誠の姿がこのテクストで表わされる。慈愛はそれを受け入れる。
  ストラクチャー的に慈愛に向かい解放が表わされる。それは三池のナラティブとして大事なことだ。物語構造として三池の特色は大事であるが、彼のイロはやはり、あのグシャリに表わされる。そして、その色づけがあるからこそ、「愛と誠」の誠と慈愛は効くのである。ミイケはキレイサッパリ成就する。


★ 
★ 註1:イライラ悶々の心理を表わすのは『タクシードライバー』の規模がちょうどいい、『最後の誘惑』もそんなに大きな規模じゃないし、スコセッシのテクストはトータル的にスペクタクルは合わないという印象であった。『アビエイター』など、あんなデヴィッドリーンのような広大なイメージとイライラ悶々の心理状態にはロングディスタンスなギャップがあると思っていた。しかし、スコセッシは2000年代以降、映画史的にグリフィスを意識しているかのような、GONYに表わされているかのような教則本的な作りになってきた感じももってきていたが、それでも試行錯誤のチグハグさは、それが確信犯的に意図したものであろうと、不協和音みたいなセンスを常に表わすのであり、それは消えることはなく、そこがやはりよいのである。







『12人の優しい日本人』(中原俊;1991)
日本のディベートはフィーリング。『櫻の園』と同じように、『青いパパイヤの香り』にも通じるようなセットの人工光が気持ちいい。つみきみほと福田沙紀はいずこへ? 不在の現前、その憑依に映画や舞台の神髄をみる。恋心と同じようなフィーリングだ。陪審員が日本にあるという仮定、舞台の映像化、、イマージュというもの。論理的に積み上げていくというではなく、『12人の優しい日本人』に表わされるものは物の哀れである。独りよがりではいけない。日本のディベートは思いやりにある。






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