こないだの土曜に書いてたんですけど、のっけるの忘れていました。
一方ゴダール、映像を目的化としている。ゴダールにおいては、たとえ運命が描かれるにおいても、それは“テクスト”であるだけである。唯物論的にテクストを織り成す。彼が理想とするマテリアリズムはコミュニズム(或いは、コレクティヴィズム)の理想とするそれに基づくものであろう。その生産主義にこそ、彼のマテリアリストとしてのイデアがあるのだろう。テクニック/メディアとしてのシネマの可能性。
アレゴリー、、瓦礫が星系を形成するそのモメントがゴダールには美学なのである。その一瞬の瞬間に換喩の導き顕れる。そこに詩学が表されるのである。その生産過程、、
ゴダールのマニエラ、シネマの反省性。意識とはこういうものなのだ、ということをわざわざ長い時間を使って表す、のではなく、意識の共有を企てるコンセプチュアルなものであり、コンセプトはコンセプトでしかないものの分散であり、それが“コンセプト”というものを省みることを波及させる。それはシネマのためのシネマなのでもなく、Cinema on Cinemaなのでもなく、シネマであること。ゴダールは、死ぬまでシネマなのである、アート驚く為五郎。エキゾティズムが知覚に在るイシューなのであれば、それがアートの鍵となる。今夜の「美の巨人たち」のゴーギャン、どぎゃんやろうか。愉しみである。
『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)
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