父は1988(平成元)年、66歳で亡くなった。
肺の病気で長患いし、早く亡くなったので、私は父から殆ど太平洋戦争にまつわる話を聴く事ができなかった。
潜水艦に乗っていたという話は聴いた記憶があるが、はっきりしない。
そこで、次回実家に帰った際には、姉から父と戦争の話を訊いてみようと思っていた。
姉は私の3歳上であるから、私よりは父から話を聴いているかもしれない。
10/31(土)に帰郷した際に、その機会ができたので、姉に訊いてみた。
今となっては昔、日頃の生活の中で姉が父から聞いた話であるから、信憑性の程は分からず、もはや確認しようもない。
父が旧制のS中学に入学したのは12~13歳だったろう。
家が貧しかったので、親の了解を得ずに受験をし、運よく合格してしまった。
親が行かせてくれるかどうか分からなかったが、合格した旨話すと、進学の許可をくれた。
しかし、教材などを買う事はできず、教科書は隣の席の人に見せてもらったとの事だ。
幼い頃からの偏った教育のせいで、他の少年もそうだったろうが、父も軍国少年だった。
軍隊、特に海軍がカッコよかったので、いつからかは分からないが、海軍に入る希望を持っていたようだ。
S中学の途中で、徴兵検査を受けたが、胸囲が基準に足りず、不合格となった。
そこで、父は志願兵として海軍兵学校に入る事とした。兵学校を出れば将校・士官になれる。
結果的に中学は中退した。
背景には、太平洋戦争に突入する直前、日本は軍艦建造拡大の大方針のもと、1939年度より海軍兵学校の受け入れ人数を倍増(*)させていたという事実がある。
(*)1936(昭和11)年300人に対し、1939(昭和14)年600人、1941(昭和16)年900人という大雑把なデータがある。
海軍兵学校は広島の江田島にあったが、父が実際にどこで学んだかは、姉も聞いていないようだった。
満期(*)で卒業したのかどうかも分からないが、兵学校を出た父は呉の海軍に入隊した。位階は聴いていない。
そこで、潜水艦乗組員になる訓練を受ける事となった。
(*)兵学校は本来4年制だったが、対中国戦争の劇化と伴に短期化され、1941(昭和16年)年入学生は2年4ヶ月に短縮されていった。、
ある日、戦友と3人で呉の岸壁にいた時、敵機に銃撃された。
戦友の1人は頭を撃ち抜かれ即死、もう1人は腹を撃たれ、大量出血により苦しんで死んだ。
父は肩を撃たれ、弾丸は肩の上部をかすめ、出血した。少しずれていたら命に関わっていた。
私も子供の頃、父の肩を見せてもらった事がある、確かに肩に銃弾の傷痕があった。
父は、呉で潜水艦の訓練を続け、結局、戦地に出る前に終戦を迎えた。
潜水艦で南洋にでも出ていたら、間違いなく戦死していたろう。
内地にいた父は終戦後、じきに郷里の静岡へ帰ってきたと思う。
家業は蒔絵の塗師だったが、三男だったためそれを継がず、地元では規模の大きなM家具店に入社した。
静岡には塗師が大勢いた、家具製造業も盛んだった。
母とは1948(昭和23)年4月に結婚した。25歳。たぶん見合い結婚だったろう。
その後M家具店から独立し、家具卸業を始めた。東北地方に静岡の家具を卸販売するという仕事だった。
私も小学生の頃だったか、東北への集金の旅に連れられていった記憶がある。
じきに姉が生まれ、3年後に私が生まれ、更に3年後に妹が生まれた。
軍人恩給は戦後複雑な経緯を辿ったようだが、父からは、軍人としての期間が短かったため軍人恩給を貰う事はできなかったと聞いている。
以上、僅かな内容だが、忘れてしまわないよう、書き残しておく。
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