江戸時代中期から後期にかけ、一版元というだけでなく、現代で言うプロデューサーとして出版業界を多様化させ興隆をもたらした蔦屋重三郎(1750-97)。彼は一体どんな顔・姿形をしていたのか?興味は大いに湧くが、肖像画も写真もないので分からない。
ただ、僅かではあるが、出版物(多くは黄表紙)の中に彼の姿を描き込んでいるものがある。調べると、何れも版元は蔦重だった。
以下、刊行順にピックアップしてみようと思う。
1)黄表紙『恒例形間違曾我』(いつものかたまちがい そが)1782(天明2)年/蔦重33歳(数え)
朋誠堂喜三二作
この最終ページに喜三二と蔦重が描かれている。中央にこちら向きで座り、本を開いているのが喜三二。その前に座っているのが蔦重である。よく見ると、羽織の背中に「重」の文字がある。
2)黄表紙『吉原大通会』(よしわら だいつうえ)1784(天明4)/蔦重35歳
恋川春町作/画
通人達が吉原に集まり、即興で狂歌を詠む会を始めようとしている。皆、珍妙な格好をしているが、おそらく主催者である蔦重(左ページ最前列)だけは普通のなりで、硯と紙を前に差し出している。羽織の模様は、1)のそれと同じである。
右ページの奥に座ってロウトのようなものを頭に被っているのが太田南畝(狂歌号:四方赤良/よものあから)、その右が朋誠堂喜三二(手柄岡持/てがらのおかもち)だ。
これのみ版元は蔦重でなく岩戸屋源八。
3)枕本『艶本枕言葉』1785(天明5)/蔦重36歳
山東京伝(画号:北尾政演/まさのぶ)作/画
これは黄表紙でなく枕絵本、文章付きの春画だ。
布団の中から腹ばいの恰好で遊女に手を伸ばしているのが蔦重らしい。枕元の手紙の表には「から丸(蔦唐丸:蔦重の狂歌号)様、赤良(太田南畝)」とあり、画面右上には小さな字で「よくふくれるやつの、こふいふ所を うた丸(喜多川歌麿)にかゝせてへ」とある。遊女に対する男の内なる願望だろう。
また、ページの合わせ目の上辺には、右から左へと「しめてねる 二人が中の 二重帯 とけてからまる 夜半のむつごと」との狂歌が書かれている。「からまる」(絡まる)は、蔦重の狂歌号をかけているのは言う迄もない。
4)黄表紙『箱入娘面屋人魚』(はこいりむすめ めんやにんぎょう)1791(寛政3)年/蔦重42歳
山東京伝作
最初のページには、戯作に入る前、「まじめなる口上」として、京伝の筆禍事件を受け、蔦重が手をついて謝っているシーンが描かれている。左下隅に「板元 蔦唐丸」とある。
筆禍については以下レポート参。
・「大江戸エンタメ革命〜実録・蔦屋重三郎��(加筆)」(2025.1.5記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1989146081&owner_id=3341406
5)黄表紙『堪忍袋緒〆善玉』(かんにんぶくろ おじめのぜんだま)1793(寛政5)年/蔦重44歳
山東京伝作/北尾重政画
左ページにキセルを持つ京伝。着物に「京」と「傳」の文字が入っている。
京伝はこのブタのような鼻で描かれている事が多い。
右ページ、扇子を持った蔦重。前作の評判が良かったと京伝を褒め、次作を描くよう勧めている。羽織の背中の紋から蔦重と分かる。
6)黄表紙『身体開帳略縁起』(しんたいかいちょう りゃくえんぎ)1797(寛政9)年/蔦重48歳
蔦唐丸(蔦屋重三郎)作/北尾重政画
蔦重自身が書いた黄表紙の2作目(3作目説もあり)。
最終ページでは、裃姿の蔦重が新年の挨拶をしている。裃の向かって右肩、羽織の右袖には蔦重の紋。ページの右下隅には「蔦唐丸自作」とある。
これが刊行された年の5/6に蔦屋重三郎は病死している。
画の作者は不明のものもあるが、殆どが蔦重に縁の深かった人達で、版元は自身である。そういう観点で、これが蔦重との信憑性は高いと言える。
蔦重の顔は総じて月代(さかやき/剃った額)が広く、髷は細くすっとしており、眉はきりっとしてして、角張らない丸い顎をしている。
最後、6)の絵の蔦重は大分太っているように見える。蔦重の死因は脚気とされているが、その症状の一つに、全身のむくみがあるとの事で、それが関係しているかどとうか?
[参考資料]
図録『特別展 蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児』
執筆 長倉絵梨子,松嶋雅人 他
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