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2025年01月05日11:38

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大江戸エンタメ革命〜実録・蔦屋重三郎�� (加筆)

(続き)

1790(寛政2)年、松平定信は遂に出版統制令を出す。
規制対象として、淫らなもの、風刺の強いものとあるが、いかにも抽象的で、恣意的に振り回される事になる。

重三郎は山東京伝に対応を相談する。
京伝は翌1791(寛政3)年刊の洒落本『青楼昼之世界 錦之裏(せいろう ひるのせかい にしきのうら)』で遊郭と遊女の実態を描き出した(*)。内容は淫らなものではないにも関わらず、発売即摘発され絶版。
 (*)1789年(寛政元)年の黄表紙『黒白水鏡』説もあり。
京伝は手鎖五十日、重三郎(41歳頃)は財産半分(かどうかは明確でないがともかくその多くを)没収。これは版元同士の自己検閲強化を狙った、幕府のみせしめだったとも言われている。

しかし、同年数ヶ月後、重三郎は山東京伝に黄表紙『箱入娘 面屋人魚』を書かせて出版。
本書冒頭には、前の事件に対する重三郎のお詫びの「まじめなる口上」シーンが描かれている。記名は狂歌の号「蔦唐丸」になっている。
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その後も重三郎はおかみの目をかいくぐる方策を考え続けた。
それで売り出したのが「浮世絵」である。
浮世絵は大量生産ができてコストも安い。
重三郎がかねてより自分の下で育ててきた喜多川歌麿(1753?-1806)に描かせる決心をする。
それ以前に書いた歌麿の『画本虫撰』『絵本百千鳥』(版元 蔦屋)の虫や鳥や花などの写実力,観察力に目をつけ、美人画も可能だと考えた。

1791(寛政3)年、重三郎は歌麿の美人大首絵を自店で発売。
それ以前の美人画といえば、例えば鳥居清長(1752-1815)の全身を8頭身で描いたものがある。歌麿の美人画は、胸から上をクローズアップ。背景は無地。客の目は自ずから女性の表情や仕草に集中する。

当初は婦女や花魁など、無名の抽象的な美人を描いたが、のち、「難波屋おきた」など巷の実在の女性をモデルに、実名入りで売り出した。
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花魁は簡単に会える相手ではないが、町のアイドルである浄瑠璃の名取、煎餅屋や水茶屋の娘なら気楽に会える。このシリーズは大当たりし、実際、彼女らを見に行く人達が大勢現れた。

名入り美人画を出版後、幕府のお咎めが入る事を予想、心配した重三郎は、個人名を消す事とした。木版画の場合、こうした修正は極めて簡単である。
浮世絵には彫り師や摺り師など、関連する職人が多数いる。彼らの生活もかかっているとの判断を、版元として重三郎はしたのかもしれない。
だが、この対処に歌麿は抵抗した。彼は蔦屋を離れ、別の版元(近江屋)から「判じ絵」で名前を密かに示唆する方法を編みだす。
絵の左上隅に、例えば 菜が二把、弓矢の矢、海の沖、たんぼの田の挿絵を入れた。分かる人には「難波屋おきた」だとすぐ分かる。

以下、名前を消した版の全体図と判じ絵部分アップ。
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その後、歌麿は、単なる美人画でなく、『婦人手業 操鏡(ふじんてわざ あやつりかがみ』などで働く女性を、また金太郎を育てた山姥など"おばけ"の類も官能的に描きだした。美人ではない、人ではないのだから、幕府の規制にはひっかからない、という理屈だ。

寛政の改革は、当時歌舞伎興行で人気のあった芝居小屋にも規制をかけた。客足は遠のき、休業に入る小屋も出た。

1793(寛政5)年7月、改革6年目に入った定信は、幕府内部からも嫌われ、老中を辞任する事となる。
文章や絵画に対する締め付けは和らいでいく。芝居小屋も復帰。
浮世絵のモデルとして歌舞伎役者を描く「役者絵」も人気が戻った。
重三郎は、まだ名も売れぬ若い葛飾北斎に役者絵(全身画)を依頼した、が、再注文の記録は残っていない。どうやら売れなかったようだ。

その頃、重三郎は一人の画家を紹介された、東洲斎写楽である。
その癖のあるグロテスクとさえ言える役者の大首絵には魅力を感じたが、売りにだすかどうか大いに悩んだ。
1794(寛政6)年5月、蔦屋の店頭に突然28枚の役者絵が一気に並んだ。人々に強いインパクトを与えようという、40歳代半ばの重三郎のチャレンジだったと思われる。
確かに客達の目は惹いた、しかし、絵は売れなかった。
前掲の大田南畝は『浮世絵類考』で書いている、
「あまりに真をかかんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行はれず」。
女形など、妖艶な女性というより、いかにも男が女装して演じているという様子であった。
役者達もその後、写楽には協力しなかったのではないか。
大衆に受け容れられなかった写楽は10ヶ月で消えた。

その頃、重三郎は脚気にかかり、気力も次第に衰えていった。
歌麿は再び重三郎の許に戻り、作品を制作したが、重三郎は1797(寛政9)年5/6、満47歳で歿する。

のち、重三郎の下から出た人達が世に登場し、活躍する事となる。
風景画にシフトした葛飾北斎、居候として住み込み、蔦屋の店手伝いをしていた十返舎一九、蔦屋の手代だった曲亭馬琴などである。
蔦屋重三郎が江戸中期以降に果たした文化的役割は実に大きい。

自由な表現を追求した重三郎の大きな壁になった松平定信だが、実は、白河藩主時代に秘かに小説を書いていた事が分かった。タイトルは『大名形気(だいみょうかたぎ)』。
武芸一点張りの殿様が、突然勉学に熱中したり、芝居に入れ込んだりして家老達を振り回すというユーモラスな物語だ。
規制を加えながらも、蔦屋作品の面白さは理解し、内心憧れを持っていたのかもしれない。
 
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