9/8(金)、浜松市立賀茂真淵記念館の講座「森鴎外を読む〜『舞姫』の主人公豊太郎を中心に」の第3回を聴いてきた。
これが、杉本完治による今年の鴎外講座の最終回であり、2015年から始まった講座、全14回のエンドでもある。
1回2時間の講座であるから、時間で言うと、全28時間という計算になる。
以前にも書いているが、最後に当って、もう一度その全貌を記しておく。
・2015年6〜12月、「森鴎外の人と作品」、全5回。
・2016年6〜12月、「森鴎外『舞姫』を読む、」全6回。
・2017年6〜9月、「森鴎外を読む〜『舞姫』の主人公豊太郎を中心に」、全3回。
2015年の第1〜3回は、『興津彌五衛門の遺書』他、歴史小説を学んでいる。
その後、第4回から『舞姫』を採り上げているので、『舞姫』に限定すれば、全11回という事になる。
今回は最後という事もあって、『舞姫』に関連する写真や絵等の画像をプロジェクターで映し出しつつ、復習を兼ねた。
結局、1行1行の読み下しと深い解釈という手法では、最後までやりおおす事はできなかった。
この点は、聴講者として残念極まりない。
杉本としても、恐らく心残りであろう。
しかし、私は、杉本の話に刺激を受け、この間に、上野池之端(不忍池の北、動物園の裏手)の鴎外荘(現水月ホテル)に行き、千駄木の団子坂を上って観潮楼(現鴎外記念館)に行き、「森家の女性たち(喜美子,志げ,茉莉,杏奴)」展を観、『青年』に現れる根津神社から、後に漱石も住んで「猫の家」と称される事となった借家迄散策する等した。
また、九段下の蕃書調所から神田神保町の東大発祥の地等、鴎外が学んだ当時の東大ゆかりの場所にも脚を伸ばした。
これらは、文字上の学びで終わらず、私の血となり肉となったと思う。
東京には、こうした歴史に触れられる場所がまだたくさんある。
今回の復習に沿って、以下、拾い書きしてみた。
森鴎外(1862-1922)の最初の妻は赤松則良男爵(海軍中将)の長女 登志子である。
鴎外はドイツ留学から1888(明治21)年9月に帰国、周囲のはからいでバタバタと結婚が整い、翌1889年3月に結婚した。時に鴎外27歳、登志子19歳。
登志子は恐らく、殆ど生活の知恵等の習練はしなかったであろう。しかし、漢文を白文でさらさら読んだというから、才媛である。
1889(明治22)年は、大日本帝国憲法が発布された年でもある。
父 赤松則良(1841-1920)は、オランダ留学が長く、同語に堪能で、蕃書調所でオランダ語を教えた事もあった。
その自筆文字を見ると、細かく丁寧で、軍人以前に自然科学者の面が窺われる。
磐田にある赤レンガの家(旧赤松邸)は、軍を退役の後、磐田原を開墾する為に住んだ際に建てたもの。(私は、ここも訪れた。)
鴎外と登志子の結婚式が何処でとり行われたか、杉本は随分調べたが、まだ確定していない由。
ドイツ留学からの帰国後、短い間、日暮里と鶯谷の間の根岸に借家暮らしをしたが、そこで、極く内輪の縁者のみで済ませたのではないか、というのが、杉本の仮説である。当時の結婚式は、今と違い、至って簡素なものだった。
この借家には、鴎外の弟 篤次郎も同居、その後、上野池之端の赤松邸(現水月ホテル鴎外荘)に越した。
ここには赤松の女中等が大勢いて、どうやら鴎外は全く家長の扱いはされなかったらしい。
この邸は赤松男爵の別邸とでもいうべき持家で、赤松の本邸は神田にあった。
ここで鴎外は『舞姫』を書いた。
翌1890年1月、[国民之友]に『舞姫』を発表。
同9月には、長男於菟誕生するも、まもなく登志子とは離婚。
鴎外は赤松邸を出て、同年、千駄木の借家に移る。ここを鴎外は「千朶山房」と呼んだ。先に述べた漱石の「猫の家」はこれである。
そして、1892(明治25)年には同じ千駄木に新居「観潮楼」を建て、8月に移り、死ぬ迄ここに住んだ。
一方、登志子の方は赤松家に戻り、後、弁護士 宮下道三郎と再婚。
一男一女を儲けたが共に夭逝、登志子本人は肺結核となり、1900(明治33)年、磐田の赤松邸で亡くなっている。数えで30歳という若さだった。
その時、鴎外は小倉に単身赴任中で、登志子の死を新聞記事を切り抜いて報せたのは、『舞姫』の相澤謙吉のモデルで生涯の親友 賀古鶴所だった。
鴎外は、登志子の件を気に病んでいたとみえる。
『小倉日記』にこうある、
「嗚呼、是れ我が旧妻なり。於菟の母なり。赤松登志子は眉目姸好ならずと雖も色白く丈高き女子なりき。和漢文を読むことを解し、その漢籍の如きは、未見の白文誦すること流るる如くなりき。
同棲一年の後、故ありて離別す。是日島根県人の小倉に在るもの懇親会を米町住吉館に催す。予病と称して辞す」。
あまりウェットにならないように書いているが、鴎外の気持が透けて見えるようだ。
登志子は再婚先の宮下家の墓には入らず、赤松の墓(文京区、東大赤門近くの吉祥寺)に葬られた。
さて、森家の方は、祖父白仙、父静男共に入り婿である。
白仙と森家の清子(1819-1906)の間に生まれたのが、峰子。
静男(1835-96)と森峰子(1846-1916)の間に生まれた長男が林太郎(鴎外)である。
その下に、次男篤次郎(鴎外の5歳下)、三男潤三郎(17歳下)がいる。
現在、森鴎外記念館では、「森家三兄弟〜鴎外と二人の弟」展を開催中た゜。
・会期 7/7〜10/1
森家は女性に教育は要らないという方針だったが、鴎外が生まれ、その為にと、清子が峰子に読み書きから教えた。峰子はそれに熱心に応え、夜も寝る間なく学んだ。おかげで、峰子は鴎外に仮名や手習いを教える事ができるようになった。
こうした関係もあったからか、清子と峰子の親子は非常に仲がよかった。
白仙は、参勤交代の帰りに、滋賀県の土山で病死、同地の常明寺に葬られたが、清子だけでなく峰子の遺骨も、遺言によって、同寺に納められている。
1953(昭和28)年になって、津和野の森家菩提寺 永明寺に3墓は移動され、今土山には供養塔が残る。
鴎外の弟 篤次郎も、家系に従って東大医学部を出た人物だが、芝居にのめり込み、後、雑誌『歌舞伎』を創刊した。ペンネーム三木竹二で劇評活動をした。
妹 喜美子(嫁いで小金井姓に)によると、できあがった『舞姫』の原稿を家族に最初に朗読したのは篤次郎だったと言う。これを聴いた家族は皆涙したそうだ。
この篤次郎は1908(明治41)年に40歳で喉頭がんで死んでいる。
前年からの入院は、当時神田小川町にあった賀古病院にしている。賀古鶴所は鴎外の遺書を口述筆記してもいる。鴎外の人生において、幾度も特別な役割を果たした人だ。
篤次郎臨終の時、鴎外は四国出張中で、最期には間に合わなかった。
大学病院での篤次郎の病理解剖に立ち会った際、医学者であるにも関わらず、鴎外は卒倒したと伝えられている。
この年は不幸が続いた。
篤次郎の死の翌月、今度は次男の不律が百日咳の為、僅か2歳で死んでしまう。
同時に同じ病に罹り危篤状態にいた長女 茉莉の苦しむ姿を前にして、鴎外は、医者の奨めに従い、安楽死を決心する。
その為のモルヒネを用意したところで、後妻 志げの父 荒木博臣に留められた。
茉莉は、その後奇跡的に回復し、一命をとりとめる事となった。
この一件については、於菟、茉莉本人、杏奴が後日それぞれ書いていて、その内容は、峰子の関わり方を中心に微妙に異なっているようだが、ここでは、これ以上追求する事はできない。
こうした内心の危機をテーマにして、後日『高瀬舟』(1916)が書かれる事となった。
当日の話は更に多岐に亘ったが、レポートはここ迄にしておく。
私なりに、今後も鴎外研究は続けて行くつもりである。
杉本完治氏に、ここでもう一度お礼を言いたい。
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