(続き)
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近代日本の工業化の進展に向き合い、民次や同時代の画家達は、都市、工場や機械というモチーフをしばしば採りあげた。
民次はリノカット版画で瀬戸の風景を連写した。
《瀬戸十景》(1937)
これも画像と解説は過去のレポートをご覧頂きたい。
・「北川民次展/瀬戸市美術館」(2015年9/14記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946055646&owner_id=3341406
この展覧会は民次生誕120年記念展だった。
戦後、1955年、民次は約20年振りにメキシコを再訪、その足でヨーロッパを旅した。
民次は、太い輪郭線で機械や人間を平面的に描いたフェルナン・レジェ(1881-1955/フランス)の作風に惹かれた。
《砂の工場》(1959)
瀬戸の工場内が太い輪郭線で力強く描かれている。機械や鋼材の鋭いタッチ。無表情の人間達は機械の一部のよう。
�后嵌�術教育と絵本の仕事」
民次はニューヨークで働きながら美術学校に通っていた1910年代に、子供と美術の関係に興味を持った。都市の子供は、繁栄の中にあっても、美術への関心を失っている者が多かった。人間性回復のためには美術と民衆のつながりが重要で、美術教育が肝要だと感じた。
一方、1920年代のメキシコでは、野外美術学校が次々設立され、アカデミックな教育でなく、規範に縛られない自由な制作が目指されていた。
民次も、トラルパンやタスコで野外美術学校の活動に加わり、子供達の自主性を大事にする教育を試行した。
帰国後、民次はそれを日本でも実践しようとした。
戦時中には子供のための絵本作りに熱中した。
『マハフノツボ セトモノノオハナシ(魔法の壺 瀬戸物のお話)』(1941)
絵・文共 北川民次。民次が初めて手がけた絵本。
他に『ジャングル』(1941)、『うさぎのみみはなぜながい』(1942頃)等。
終戦後、1949年には、東山動物園に「名古屋動物園児童美術学校」を開設した。子供達の自主性によって創造力を高める事を目指したが、成果はなかなか出ず、賛同者も現れず、民次はしばらくして美術教育から退く事になる。
エピローグ「再びメキシコへ」
1955年のメキシコ再訪では、リベラやタマヨらと再会。都市は変貌したが、市場の片隅では変わらぬ人々を見た。
《メキシコ市場の一隅》(1956)
サボテンの実等を売るこれら登場人物達は、のちそれぞれ個別作品に発展する事になる。
メキシコでは、壁画手法としてフレスコ画の時代が終わり、モザイク画が主流となっていた。
民次は、モザイク画の素材として、瀬戸の技術を導入する事が可能ではないかと思いつく。
1958年、民次はモザイク壁画制作のチャンスを得た。CBC(中部日本放送)の依頼で、同社ビルCBC会館に壁画《芸術と平和》を制作する事となったのである。
高さ6.8m、幅16.6m、芸術を象徴する8人の裸婦と平和の象徴であるハトが描かれた。
原画(1958)
完成壁画(1959)
おそらく最近の撮影と思われる。雨や陽射しによる退色が見られる。
壁画としては、他に、
瀬戸市民会館《陶土の山と採掘夫、ロクロ場風景、登り窯》(1959)
名古屋旧カゴメビル《TOMATO》(1962)
瀬戸市立図書館《知識の勝利/無知と英知》《勉学》(1970)
を制作した。
《芸術と平和》左下の女性の絵筆の先にはバッタが描き込まれている。民次は自画像としてバッタのモチーフを繰り返し使った。
《バッタと自画像》(1977)
カナヅチを振り上げる自身の姿は、民衆の中に生き、絵筆によって抵抗し続ける芸術家像だろう。
翌1978年、東郷青児(1897-1978)が死ぬと、民次は二科会の会長に就任。しかし、半年後に辞任し、1979年には二科会も脱退、絵筆を置くと表明した。85歳。
1986年には、メキシコ政府から、外国人として最高位であるギアラ・アステカ勲章を授与された。その一方で、愛知県からの勲章の申し出は固辞した。
1989年、瀬戸市で死去。97歳。
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