mixiユーザー(id:3341406)

2024年09月06日12:50

89 view

「北川民次展〜メキシコから日本へ」/名古屋市美術館��

9/4(水)、名古屋に出て、2つの展覧会を観る。
1つめは名古屋市美術館、エンディングも間近い「北川民次展〜メキシコから日本へ」。
生誕130年記念の企画である。
・会期 6/29〜9/8

構成は以下の通り。
�機嵬噂阿悗里泙覆兇掘�
�供嵎媛茲伴匆顱�
�掘峺諺曚半歡А�
�検崚垰圓筏ヽJ弧澄�
�后嵌�術教育と絵本の仕事」
エピローグ「再びメキシコへ」

約180点の出品には、民次の絵画(油彩・グワッシュ他)と版画合計約110点、藤田嗣治等 関係する画家の作品10点、その他資料多数含む。
章を追って見てみたい。

�機嵬噂阿悗里泙覆兇掘�

北川民次(1894-1989)は静岡県の現 島田市で、製茶業を営む家に生まれた。8人兄弟の末っ子。
静岡商業高校時代に美術や演劇に惹きつけられ、親の意思に反して芸術の道へ。
早稲田大学予科を中退後、1914年20歳で、オレゴン州ポートランドに住んでいた兄を頼りに渡米。
二―ヨークの劇場で働きながら、美術学校アート・スチューデンツ・リーグに通い、社会派の画家ジョン・スローン(1871-1951)の下で学ぶ。彼からは、民衆を描く事、その実態を捉える事を教わった。
民次はそれ以降、生涯に亘って、現実を鋭く見つめ、民衆の実態を描く事で、社会の矛盾迄炙りだそうとした。
そして、1921年、民次はメキシコへと移る。彼はここでも民衆、殊に先住民及び征服者スペイン人との混血者の生活に注目した。そこには生と死のテーマが横たわっている。

《トラルパム霊園のお祭り》(1930)
フォト

最前列には生まれたばかりの赤ん坊を抱く先住民、背後には小さく子供の柩を担いで霊園へと歩く人々の列が描かれている。

1936年、民次は、太平洋戦争に向かう日本へ帰る事となる。
民主主義の根付いたアメリカと比し、日本の実情に民次は落胆した。この戦争に「日本は必ず負ける」、そう周囲に漏らした事もあったらしい。
《鉛の兵隊(銃後の少女)》(1939)では、青い目の人形を負った少女(民次の娘)が卓袱台の上で「鉛の兵隊」を動かして遊んでいるのだが、その表情の何ともつまらなそうな事。
画像と解説は、以下のレポートをご覧頂けたらありがたい。
・「画家たちと戦争展/名古屋市美術館」(2015年9/15記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946081685&owner_id=3341406

�供嵎媛茲伴匆顱�

1910年代、メキシコでは革命が巻き起こり、従来の独裁政権を打ち倒した。
1920年代、革命政府は新しい国民文化を築こうと、ディエゴ・リベラ(1886-1957)やダビッド・アルファロ・シケイロス(1896-1974)らに公共建築物の壁画を描かせた。「メキシコ壁画運動」と呼ばれ、民衆に来るべき社会を啓蒙したのである。

1936年に帰国した民次は、まず静岡県に滞在、次いで妻の実家がある愛知県瀬戸市で1年近く過ごした。翌年になって池袋周辺にアトリエを構え、メキシコで知り合った藤田嗣治に勧められ二科会に参加。メキシコの壁画を思わせる大作を二科会に出品、その異彩は注目を浴びた。

《タスコの祭り》(1937)
フォト

178×267cm。極端な遠近法。
陶磁器用の粉末顔料を使い、メキシコで学んだ卵黄テンペラの技法で描いた。
一番手前で座っている男は民次自身に違いない。そのバッグに「Kitagawa 1937」とサインが入っている。

�掘峺諺曚半歡А�

1920年代のメキシコでは、壁画運動に代表される民族主義的な動きが隆盛する一方、キュビスムやシュルレアリスムといった国際的な美術運動に共鳴する画家達も現れた。例えばルフィーノ・タマヨ(1899-1991)、フリーダ・カーロ(1907-54)等である。
民次はこうした動きからも影響を受けた。

《メキシコ静物》(1938)
フォト

左には2つに裂けた大木、中央にはノコギリで切断される途上の幹、その周囲にはカナヅチ、ハサミ、包丁、拳銃、右上には首を切られた石像の頭等々、暴力的なモチーフが散らばっている。戦争へと突き進む時代の心象かもしれない。


(続く)
 
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年09月>
日 月 火 水 木 金 土
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930