(続き)
9/12(土)、瀬戸市美術館で「北川民次展」を観終わり、来た通りの道を尾張瀬戸駅迄戻る。今度はだらだらの下り坂。
名鉄瀬戸線の尾張瀬戸駅周辺は、「せともの祭」のせいで相変わらず賑わっている。
駅近くのビル内の中華料理店に席を見つけ、遅い昼食。坦々麺が大層辛く、幾度もむせる。
名鉄瀬戸線終点の栄町駅で降り、地下鉄東山線に乗り換え、栄駅から1駅の伏見駅より徒歩10分程で白川公園内にある名古屋市美術館へ。
公園の中は木々が陽射しを遮り、幾分涼しい。樹間を渡る風も乾いている。
名古屋市美術館でやっているのは「画家たちと戦争」展。副題に「彼らはいかにして生きぬいたのか」とある。
・会期 7/18〜9/23
大変に企画意図の鮮明な展覧会だ。
画家はただ芸術・文化の中に漂っているのではない、社会と時代に大きな影響を受ける。
社会動向の中でも特に戦争というものは、画家の芸術に圧倒的な影響を与えた。
ここで言っている戦争とは、太平洋戦争だけでなく、1931年の満州事変から1945年の終戦迄続いたいわゆる「15年戦争」を指している。
この展覧会は、その時代の代表的な画家達が、戦争からどう影響を受け、どう生きたかを見ようとするものである。
具体的には、戦前期(〜1937),戦中期(1937〜1945),戦後期(1945〜)と時代を切り、画家1人当りそれぞれの期の作品を3点ずつピックアップ、合計9点を並べて観てみようというのだ。
画家は14人が選ばれ、各9枚、多少点数は前後するので、前後期合わせ129点(日本画,洋画,版画を含む)が展示された。
これらを通じて、画家達の変化を眺望し、ひいては「戦争とはどのようなものなのか」「戦争を生きぬくというのはどのようなことなのか」を考えてみたい、これが今展の意図である。
節目となる年と出来事について、ほんの少しだけ箇条書きにする。
1931年 柳条湖事件(満州事変の発端)。
1932年 五・一五事件。特高設置。
1933年 獄中で共産党幹部の転向声明。
1936年 二・二六事件。
1937年 文部省『国体の本義』発表、民主主義,自由主義の否定。
盧溝橋事件,南京事件。
1938年 国家総動員法公布、総力戦の為国家の人的,物資的資源を統制。
陸軍従軍画家協会結成(藤島武二,鶴田吾郎,向井潤吉他)。
1939年 陸軍美術協会結成(藤島武二,藤田嗣治,小磯良平他)。
第1回聖戦美術展(陸軍美術協会による最初の戦争画展)。
1940年 皇紀2600年奉祝美術展(美術界の挙国一致として、諸美術団体が参加)。
1941年 軍諜報部座談会「国防国家と美術」、美術雑誌〈みずゑ〉に掲載。
松本竣介、『生きてゐる画家』という1文で反論。(*)
シュルレアリスム弾圧事件、福沢一郎,瀧口修造、治安維持法違反で逮捕。
大日本航空美術協会結成(吉岡堅二,福田豊四郎,北川民次,宮本三郎等)。
太平洋戦争勃発
1942年 陸軍嘱託南方派遣画家15人壮行会(藤田嗣治,宮本三郎,福田豊四郎,吉岡堅二等)。
ミッドウェー海戦敗北。
第1回大東亜戦争美術展。
1943年 日本美術報国会結成(横山大観,山口蓬春,石井鶴三他)。
美術工芸統制協会創立、絵具等資材配給を独占管理。
アッツ島玉砕。国民総力決選美術展。
1945年 敗戦。連合軍総司令部GHQ設置。
二科会再建(東郷青児,北川民次他)。
1946年 第1回日展開催。
日本国憲法公布。
美術界といえども政府と軍部が管理統制を徹底していったのが、上から判るだろう。
今展に選出された14人の美術家は以下の通り。
横山大観,藤田嗣治,恩地孝四郎,北川民次,岡鹿之助,福沢一郎,北脇昇,福田豊四郎,吉原治良,宮本三郎,吉岡堅二,山口薫,香月泰男,松本竣介。
瀬戸市美術館で観てきた北川民次がここにも入っている。
流れから、北川の《鉛の兵隊(銃後の少女)》(1939)についてまず書こうと思う。
北川は1936年にメキシコから帰国した。その年に二・二六事件が起こり、戒厳令がひかれてクーデターは鎮圧されたが、日本は戦時体制にのめり込んでいく。
1939年、陸軍美術協会による最初の戦争画展 第1回聖戦美術展に招待され出品したのは『鉛の兵隊』、「銃後の少女」と副題が付いている。
少女(民次の娘である)が、卓袱台の上に鉛でできた兵隊や戦車,大砲のおもちゃを広げて遊んでいる。日本の兵隊が国旗を掲げる前で、中国軍の兵がちりぢりになって逃げようとしている。
日本軍の勝利をを喜び士気を高揚せしめるようなモチーフだ、が、ちょっとヘンだ。少女の表情は冷たく、如何にもつまらなそうで、喜色がない。
少女は背中に「青い目の人形」を大事に負っている。戦時体制下では、捨てられるか、隠されてしかるべきものだ。
内に北川の皮肉、冷笑が感じられるようで、彼の心中が見える気がする。
次に、宮本三郎(1905-74)の《死の家族》(1945-50)。
宮本と言えば、最も有名な戦争記録画と言っていいであろう《山下、パーシバル両司令官会見図》(1943)を描いた画家という事で有名だ。
山下奉文陸軍大将が、シンガポールの戦い終結時、イギリス軍司令官アーサー・パーシバル中将に「イエスかノーか」と降伏を迫った図とされている。
宮本は、雑誌の挿絵等で画業をスタート、類まれなデッサン力を持っていた。
師は藤島武二だが、彼に言わせるとデッサンがうま過ぎるのが宮本の欠点でもある、と。
山下大将の絵で宮本は帝国美術院賞を受賞した。
そして、この絵の作者である事は、戦後彼にずっとのしかかった。
戦後の宮本は豊饒な花や裸婦像を多く描いた。
彼の死後、アトリエから1枚の大作が発見された。それが《死の家族》である。
彼は発表する事を一切考えずにこの絵を描き、一度も人目に触れさせなかった。
ここには、戦争の高揚もなければ、勝利も敗北もない、ただ重たい死が横たわっている。
(*)松本竣介の反論『生きてゐる画家』と大作《立てる像》(1942)については、2013年に世田谷美術館で観た、生誕100年記念回顧展の日記を参照頂きたい。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1888605932&owner_id=3341406
横山大観(1868-1968)も3つの期に分けて展示されているが、どれも全て富士山の絵である。
生粋の国粋主義者である彼には、富士は皇国のイメージそのものであり、日本の精神の象徴だった。
若い時から、戦前も戦中も戦後も、変わる事なく彼は富士を描き続けた。
付けられたタイトルは《神国日本》(1935),《日出処日本》(1940),《霊峰飛鶴》(1953)、等々。
皇紀2600年は彼の画業50年でもあり、その折りに描かれた《海山十題》(1940/含む〈霊峰四趣〉)は50万円で売れた。その売上金は陸海軍に献納され、爆撃機や戦闘機に「大観号」との名が付けられた。
終戦直後、大観はGHQに戦犯容疑で取り調べを受けた。
深い内容と強い意図を持った展覧会だったが、こうした企画は日本において稀だと言ってよい。
戦争の問題は、政治だけでなく美術においても曖昧にされ続けてきた。
名古屋市美術館のような取り組みが、今後あちこちで生まれていく事を望んでやまない。
全部観終わったのは16:30。
例によって、そのまま伏見の大甚で一杯。
今回は北川民次について深める事ができ、幸いだった。
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