第9回静岡国際オペラコンクールが近づいてきた。
アクトシティ浜松大ホーにて、スケジュールは以下の通り。
・第1次予選 10/28〜30
・第2次予選 11/1〜2
・本選 11/5
8/27には、過去の入賞者を招き、静岡文化芸術大学講堂でプレイベントが行われ、私も翌日の日記で紹介した。
以下参照。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985802286&owner_id=3341406
第8回(2017)では22ヶ国191人から出場応募があったが、今回は33ヶ国271人から応募があったとの事。
本来開かれる筈だった2020年が新型コロナのため延期になったので、待ち続けた人がいるのかもしれない。いつもは応募資格年齢が33歳迄だが、今回は延期を加味し、特別に36歳迄となっている。
第8回は191人から予備審査を通ってコンクールに出場した者が46人だったが、今回は271人から60人が第1次予選に出場する。
そこから絞られ、第2次予選には24人、本線には6人が臨む事となる。
以下静岡県のフリーペーパー中日ショッパー10/13の記事。
写真の歌手は、第8回コンクールで第1位となったムン・セフン(テノール/韓国)。
コンクール後、彼は以下のような活躍をしている。
・2018年 スペイン・フランシスコ・ヴィニャス国際コンクール3位入賞。
・2019年 イギリス・グラインドボーン音楽祭にて《愛の妙薬》(ドニゼッティ)でネモリーノ役。
・2020年 スウェーデン・マルメ歌劇場にて《ファルスタッフ》(ヴェルディ)フェントン役。
ちなみに今回のコンクール審査員は以下の通り。
木村 俊光(審査委員長)
チェ・サンホ(韓),デイヴィッド・ガウランド(英),浜田 理恵
ウェルナー・ヒンク(オーストリア),伊原 直子,三浦 安浩
フランソワーズ・ポレ(仏),レノーレ・ローゼンバーグ(米),シェリル・ステューダー(米)
また、10/9にはSBSで記念番組も放送された。
『世界へ羽ばたけ! 伝説の歌姫と静岡国際オペラコンクール』
進行 別所哲也
解説 田辺久之(1932-2023);元常葉大学教授、三浦環研究家。
著書『考証 三浦環』(1995/近代文芸社)
『新版 考証 三浦環』(2019/幻冬舎)
本コンクールは、静岡県にゆかりの深い国際的オペラ歌手 三浦環(1884-1946)の功績を讃え、没後50年である1996年にスタートした。
2003年には、声楽分野のコンクールでアジア初となる国際音楽コンクール世界連盟に加盟した。(浜松国際ピアノコンクールは1998年に同連盟に加盟している。)
三浦環は日本の歌手として、初めて国際的な活躍をした女性だが、我々はあまり彼女について知らない。この番組は、田辺久之の研究成果を基に、新しい環像を見せてくれた。
環は、現 御前崎市出身の公証人柴田熊太郎と、現 菊川氏出身の永田登波(とわ)の長女として1884(明治17)年2/22に現 東京都中央区京橋に生まれた。(両親はのち離婚。)
登波の菊川生家には、「三浦環生母 永田登波生誕之地」と環直筆の「声」の石碑が並んでいる。
環は1900(明治33)年に東京音楽学校(現 東京藝術大学)に入学、滝廉太郎にピアノを学ぶ等した。
入学直前に父から勧められ陸軍三等軍医正 藤井善一と結婚したが、7年後に離婚している。
在学中の1903年、東京音楽学校奏楽堂で初めて日本人の手により開催されたオペラ公演に出演して成功を収めた。
同校で講師、助教授等を務めたのち、1911年に創設された帝国劇場に入ってプリマドンナとなり、レコード録音もした。(環が講師時代、初めて持った生徒が2歳年下の山田耕作だった。)
1913(大正2)年、現 掛川市出身の医師 三浦政太郎と再婚。政太郎はビタミンの研究でのち医学博士となる。
翌1914年、夫婦でドイツ留学するも、第一次世界大戦勃発により日独は敵対国となったためイギリスに移住、ここで1915年、《蝶々夫人》のタイトルロールを演じて好評を博す。この時、環31歳。
翌年からのアメリカ公演では《イリス》(P・マスカーニ)や、《蝶々夫人》の先駆的作品とも言われる《お菊さん》(A・メサジェ)も演じた。
滞米中には、環は3代の大統領(W・ウィルソン,W・ハーディング,C・クーリッジ)の前でも歌っている。
1920(大正9)年にローマのテアール・コンスタン劇場でお蝶夫人を演じた時には、作曲者G・プッチーニに自宅へ招待され、「世界で一人の理想の蝶々さん」、「マダムバタフライはあなたによって初めて成った」と称賛された。
下はプッチーニと環の2ショット。
1921年、夫 政太郎は帰国。
この後、環は欧米を中心に世界の200都市で《蝶々夫人》の舞台に主役として立つ事になる。
その間で、伴奏者で愛人とも噂されたアルド・フランケッティから1925(大正14)年に献呈された《浪子さん》も演じている。
1929(昭和4)年、日本で政太郎が逝去。51歳だった。政太郎は袋井市の正観寺にある三浦家の墓に葬られた。
3年後1932(昭和7)年に帰国した環は、政太郎の墓参りをし、墓を抱いて泣き、即興で歌を歌ったと伝えられる。
政太郎の現存親族の三浦俊一氏は、今年2023年2月、その墓の前に政太郎と環の顕彰碑を建てた。顕彰碑には、環が即興で歌った歌の歌詞を書いた扇子が彫り込まれているとの事。
俊一氏は、亡くなる前の環の言葉として「日本人はこれからもっと世界に目を見開いて文化で貢献しなければいけない」を心に深く刻んでいるそうだ。
環は夫の墓参り後、日本各地でリサイタルを開き、同年中にヨーロッパに戻った。
そして、1935(昭和10)年には、シチリア島パレルモで《蝶々夫人》出演2000回を数える事となった。
これを機に、環は母 登波と暮らす事を決心し、同年、帰国を果たした。環51歳の年である。
2001回目の《蝶々夫人》は、翌年東京の歌舞伎座で演ぜられた。
環は日本の各地でオペラやリサイタル、レコーディングを行ったが、1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発。
戦火が激しくなった1944年(昭和19)年には山梨県の山中湖畔に母と伴に疎開する。
環は、母を看病しながら、東京から運び込んだピアノで地元の子供らと気さくに歌ったり遊んだりした。湖に向かっての発声練習は毎朝続けられた。(後出する寿徳寺住職談。)
終戦前、1945(昭和20)年4月、母死去。
終戦から僅か4ヶ月後の12月には、環は日比谷公会堂でシューベルトの《冬の旅》全24曲リサイタルを4回開いた。この時は自身の翻訳による日本語歌詞を使用した。
翌1946年、膀胱がんが発覚し、入院する。
衰弱し、1人で歩けなくなるが、それでも約束は果たさねばならないと主張し、同年3月、日比谷公会堂で《美しき水車屋の娘》(シューベルト)全20曲を歌った。
その後もNHKでの録音等を重ねたが、5/26、62歳で息を引きとった。
遺言に従い、山中湖東岸、南都留郡の寿徳寺に母と伴に埋葬された。
その手前、山中湖村教育委員会が建てた「歌姫 三浦環を偲ぶ」石碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば真の芸術家とはなり得まじ」という本人の言葉が見られる。
山中湖村の湖畔には今年2月、彼女の功績を讃えて制作されたブロンズ像が除幕公開された。
日本だけでなく、世界でも男権の強かった当時の社会で、2つの戦争にも翻弄されながら、女性芸術家として強く生きたその姿は、もっと評価されるべきだと思う。
静岡国際オペラコンクールからはばたいた歌手達が、世界で活躍するのを期待して止まない。
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