フェイブルマンズおもしろかった。この作品を知ったときスピルバーグは何故に自伝的なものをやるのかなと不思議に思ったのだけれど、ちょうどその頃アマルコルドを観たので、なるほどスピルバーグ規模のもはや国葬が予約済みのようなヒトだったら当然か、「スピルバーグ」という固有名詞が独り歩きできる彼だもん、となんら不思議ではなくなる(でもひょっとして、大好きだったママの(と彼自身の)贖罪をこの際に吐露したかったのか、とも観終わって思うものある)。アマルコルドがアタマにあったから、記憶とユングイズムなもの表されるかと思いきや、あたりまえだのクラッカーだけれど、スピルバーグらしい行動しながら思考し、思考しながら行動するプラグマティストである少年のハナシなのだな、となる。常に動くこと、ムーヴィーには適してあまりある。スピルバーグらしく、ナショナリスト的意思が戦争映画に反映され、彼の永遠のテーマであるファミリーも大々的に表され(これがまさにメインだな)、ヒッチコック(ってより、人物のまわりをまわるのはデパルマ・カットにより近く見えるけれど)的なものも表され、ロッドサーリング的な不安感も演出され、彼が育つときに触れたであろう60〜70年代風欧羅巴映画な雰囲気もピアノの調べとともに表され、いじめを通過したあとに知り合う初めての恋人はまるでエイミーアーヴィングの若いころのように感じられ、やがて(主人公だけにとってであるが)不条理にも別れる描かれは彼の恨み節か?も表され、ㇷと気付けば恋愛モードのところ、リコリスピザを想起させるな、キャルフォニアの日光のせいかな、と思うも気付くは、この作品も確かにアオい。そういえば前作はウェストサイドストーリー。あれはピンとこなかったけれど、こちらの作品のアオさはスピルバーグらしさを発散させている。スピルバーグらしい、垣根を超えた結びつきは、あの金髪WASP(でもホントはジュ―イッシュとか言っていたっけ?WASPの代表選手ともみなされているチャールトンヘストンもほんとはジュ―イッシュという説がある)マッチョハンサムとの関係性に表される。ワスプへの迎合、シャイニーなキリストとの迎合とも捉えられるが、スピルバーグ的には、中身はクソでも(スピルバーグ的には人種やいかなるイデオロギーの違いがそれぞれにあっても、だろう)見た目がクールでヒトを魅了できるものであればカメラアイは表面を捉え映画が表す絵はまずはそれであるものゆえそうした表層を活かすのであり、そしてそこには垣根を越える絆があるはず、という分断のアメリカがホントは求めてやまないものが表される。スピルバーグらしい。アメリカ映画への讃辞も忘れない。実はへそ曲がりで頑固でピュアで真摯、ってとこ、スピルバーグは同輩のリンチと先輩のフォードを上手くくっつける。地平線、なるほど、初期のにはそれがあふれているな。いまでも彼の映像にあろうけれど、初期の作品群はシンプルだったから目立って思い出されるのかな。ちょっとジョンウィリアムズらしからぬウィリアムズの音楽、カミンスキーらしからぬカミンスキーのカメラアイもよかった、となる。最後のオチは、ノーマンロックウェルなユーモアを想起させる。フェイブルマンズ、スピルバーグに溢れている。
ログインしてコメントを確認・投稿する