街の上で、おもしろかった。玉三郎似の青年が見つめる、変わりゆくシモキタ。されどヒトは変わりゆくことはない。下北沢族のエスノグラフィ―である。作品はアンサンブル的に、サッドティーに似ている。そしてまた、今泉力哉テクスト、いつも痛みもともなう。知り合いに、勝手にふるえてろ、町田くんの世界、愛がなんだ、がおもしろかったと言うと、勝手にはおもしろかった、町田くんは漫画で読んだ、愛がなんだは、ちょっと、、と嫌な顔をしていた、、女性からしたら、そうなんだ嫌なんだなと感ずいたけれど、そうなんだなそうかもしれない、となったけれど、この作品の、自分が好きな女性への告白用のシャツを買うのに好いてくれている女性をつき合わせるのは、さすがに痛みを感じるものある。こんなことありえるのかな、となるも、宇宙人が現れるよりも現実的である。しかし、アレンが身近に思えることを想像をもっておもしろくふくらますように、今泉もありえそうな想像上の日常を描き込んでいるのであろう。そのうえで、彼のは痛みをともなう想像が多いな。ほがらかな映画のセンスとうらはらに、サディストでありマゾヒストなのであろう。そういえば、劇場で観たときも思ったが、険がある言葉がセリフにけっこうあるな。勝負をかけた、あの長回しのところ、彼女のナチュラルさと若葉竜也の形式から抜け出せないアクトがそのワンショットになにか不自然さをもたらす。また、アレンは観ててもロメールは観ていないとあったが、もうこの頃は観ているのかな、穂志もえかが赤い本を読むクロース・ショット、ロメールぽかった。
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