私をくいとめて、おもしろかった。映画芸術で年間ベスト10に選ばれただけあるようなマニアックな作品だという様相を感じ観ながらつつも、印象やがて変化してくる。美人が婚活や内面の声があってもの甘い酒における人物や関係性を客観的に捉え感じさせるものではなく、勝手にふるえてろと同じように、総てを分からせるフラット・ポップに感じ方が変化してくる。のん、アクトできるでないか。様々に活動ひろげるでなくとも、天然にアクトできるではないか。田中絹代、高峰秀子、吉永小百合と同じように、いろんな役を自分に近づかせやれる天然がみえる。いや、彼女の年齢にそった形で役を表現できる天然か。いやはややはり、田中絹代、高峰秀子、吉永小百合と同じように、のんの型に取り込んで様々なキャラを天然に表現できるメソッドである。彼女はやはり天然記念物である。彼女のつるつるのタマゴ肌とクリクリする目ん玉とクレヨンしんのような声と喋り方を見ながらそう感じてくるのであった。かなりのクロース・ショットもありでの彼女の顔のオンパレード、そこに内面の声との対話、トラヴィスビクルしてる、と思いながら観ていると、寧ろその声は、2001スペース・オデッセイのハルに感じられてきたり、それから、その声は彼女、ノーマンベイツしてるなとその錯乱や声との乖離に恐怖に感じられてもくる。とりとめもない私をくいとめて、に感じられてくるのである。それも大九メソッドか。大九明子の新作を予告で拝見したが、三谷幸喜の二作目以降の派手なだけの作品群と同じようにも感じられ、どんなものであろうか。危惧する。でも、現在と違って派手なだけでナチュラルなもの希薄だった恋するマドリであるが、今作はなにかそれと同じ匂いを感じ、新作も見た目と違い、彼女の存在価値はちゃんと変わらず有るのだろうな、とも思えてくる。橋本愛、かなり寄りのクロースショットがなんでだろう、と気になったけれど、のんへのそれは主人公だから理解できても、なんで臼田あさ美にはないのか、あまちゃんファンへのサービスか?あまちゃん知らない人は不思議に感じるだろう、と思ったけれど、スケッチのシークエンスとその後に語られる過去によって、意味があったんだと納得となる。主人公のエモーション、キャラを橋本と近づけながらも相対化させ語らしおん。寄りの主人公へのショット、温泉でのところ、タオルを顔に押し付けるところ更に苦しさ感じられ、それはラストの氷マシーンのとこでも繋がるとこある。でも、よくよく考えると、ウクライナやパレスチナに比べたらどうでもいい悩みである。けれど、等身大の人物の等身大の悩みは、他人にとやかく言われる筋合いのないもの、切実なものがある。ローマが表されてもシンコペーションせず、全体的にフラットでも、或いはだからこそ、意識の流れを表すのには長すぎない尺だな、となる。
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