ドライブマイカーおもしろかった。2回目。観たいかなと見せるも、退院後はなんだかうつろでよくよく寝たりするから観れるかなとなるも、母も3時間じっくり観ていたのでよかった。レンタル屋にもう出ているのか、まだシアターでも公開されているのに。オスカーのノミニ―になってるからもあろうか。手話も含めてセリフ、会話が多いよね。パラサイトと違って動きも少ないし、ヨーロッパでの受賞は理解できても、アメリカでもこんなに日本語セリフが多いのが受け入れられてるの不思議である。これが受賞したら懸念されるのは、シリアス格調主義的なのが定番になること。Z世代、というよりはYouTubeなんか見まくりSNS世代的パッパラパ―老若男女では、例えば映画では、これが映画だそれ以外は映画ではない的インテリのマニアックがなくなりジャンル網羅して(もしかしたらジャンルすら知らないかもしれない)なのが増えてきたりと聴くし、韓国映画ではジャンルの枠組みのなかで大衆映画と芸術映画が折衷する作品があったり、インド映画では商業的なマサラ映画と、サジダッドレイのような現実主義的なパラレル映画の区別が曖昧なものが増えてきたりしてるとき、またシリアスへの偏愛が傾向として出てくるのか、と考えた。が、ここ数年のオスカーは、エクスペリメンタルなナラティヴ映画、というか、バードマンとか物語構造的にエクスメリメンタルってるのも多いから、そういった観点なのかな、と思え、それはそれでヘルシーなのかな、となる。リヴェット継承的な感じであり、終盤の自動車内の西島と岡田の会話の幽玄性はキヨシクロサワなものだし、あそこでの虚無は心がカラゆえに、哀しみなりなにかのエモーションはたまたエクスタシーが充足する間が与えられおもしろく思えたけど、それまでただテキストを読めばいいと言っていた西島が遂には心を取り戻したかのようにワーニャを熱演するのは演出家としてダメなのではないのか、皆がついていけるのかと不思議になったけれど、ストラクチャーは実験的だけれど、言ってることは救済とかヒューマニズム、そんなのアメリカ映画的だし、ギスギスと内部対立が激しいアメリカでは癒しとして受け入れられるのか、とドライブマイカーに思えた、となる。
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