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2022年01月29日19:22

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映画日記『利休』

昨日の金曜日は映画を3本も見て、散財してしまったので、今週末は謹慎。
録り溜めの1本を見て過ごした。

2022年1月29日(土)

『利休』(1989年)
監督:勅使川原宏
日本映画専門チャンネル【録画】

利休と秀吉の確執を描く。
利休を三國連太郎、秀吉が山崎努、がっぷりと四つに組んだふたりの芝居が見どころ。
威厳をたもつためか人前では付け髭をし、貧しい百姓あがりの母親に権力者の親らしい虚偽の履歴を押しつける。
豪放な天下人に見えて、どこか歪なコンプレックスを抱え、嫉妬深く、粘着質な秀吉を演じた山崎努がすばらしい。
こそこそと動き回る山崎努に対し、利休を演じる三國連太郎は静で返す。
利休に対し愛憎入り混じり、ときに懐柔し、ときに怒り挑発する秀吉を、彼は泰然として受け流した。
見ながら、『利休』が日本版の『わが命つきるまで』のようにおもえた。
フレッド・ジンネマン監督『わが命つきるまで』(1966)は、16世紀の頃、イングランド国王ヘンリー8世の離婚問題を機に、高潔な知識人トマス・モアが信念を貫き、王や権力者たちの意に沿わなかったために、断頭台の露になるというストーリー。
トマス・モアと、秀吉の勘気をこうむり切腹を命じられる利休には相通じるものがあった。
おもうに、トマス・モアは知識人としての「理」に殉じた。
それでは、利休はいったい何のために、命をなげうったのだろうか?
それは自由であり、自由に裏打ちされた「美」だ。
秀吉の横暴に屈し、地べたにひれ伏し命乞いをした瞬間から、利休にとってせまい茶室の中での身分の上下を離れた自由な語らいがなくなってしまう。
さらに、茶器や茶花といった自らが信じる「美」を、権力者におもねり放棄することになってしまう。
茶道だけでなく、美術工芸歌舞音曲に話芸、短歌俳句小説に論説などなど、こと人間が個人として創造する「技」や「美」は、常に「理」と同様に、権力と対等でなければならない。
権力に屈してはならない。
そして、それらの中には、映画もあるはずだ。

登場する茶室、茶器、茶花の美を含め、最初から最後まで、緊張感のある引き締まった映像で見せきる。

傑作。


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