夜空はいつでも最高密度の青色だ、また観る。一回目よりもおもしろかった、たぶん。1回目のときは、たぶん邦画モードではないときに観て、いまひとつピンとこなかったと思う。
前に書いたの。
とても期待していたからか、ちょとクエスチョンマークであった『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』。不器用というよりも、都会で生きることで恋愛することを忘れてしまった男女が恋愛を育むこと描いたものに見えてしまった。でも、そういうのはヨカッタ。互いを思い遣るというよりも自分の気持ちを大事にし互いに育む。『川の底からこんにちは』と『舟を編む』と同様に、気付いていく過程が丁寧に表される。ただ、ストリートミュージシャンがあちこちに出てくるのは、お約束であっても、地から湧き出る地縛霊のように感じてしまった。エンドロールまであの歌であったらどうしようと不安に思ったけれど、そこにかかる歌がそれではなく違ってヨカッタ。
石井裕也はそのテクスト、作品群からみると、とても「生活」というものを丁寧に描くヒトだと思える。また、シリアスなものだけでなく、『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』にはとぼけたオフビートもある。『川の底からこんにちは』と『舟を編む』にもあったノリである。
こないだ考えた石井裕也モード。
石井裕也:生きづらい世界、悪意に充ちた世界、不条理な世界(註1)に、一生懸命に生きる人間のパワーが表される。平々凡々の主人公はそこで相手の傷みを想像できる想像力と愛すること乃至恋することの本当の意味を知る。【 註1:であるが、(これまで観た作品のなかでだが、夜空はいつでも以外は)登場人物から口頭で発せられる乃至臨んでいるというぐらいで、そうした世界がしっかりと悲惨めいて描写されているわけではない。】
今回の。
そう考えたら、今回も上記のようなものと変わらない感じもするが、ビリングからいえば石橋静河が先なのね。彼女の生活世界から映画は入っていってる、たしかに。ハイアングルから回転しながらクルマたちを捉えるスリリングなカメラアイ、彼女を追い覗き込んでいくようなカメラアイ、そして都会の煩悩に抗っている彼女、それらが表される。東日本大震災の不安がまだ色濃くあった頃の作品か。今のパンデミックの閉塞感においても、このエモーションは重なることできるのか、となる。石橋の捨てられる不安、そして池松壮亮の見る半分の世界。
松田の死はけっこう大きな存在として作品に横たわっているんだな、と、たぶん今回はそれに気付いたように思える。弱者、という言葉には抵抗あるけれど、弱者ではなく、目立たぬ者か。隣人の死で、やはり弱者か、となるも、やはりそうではなく、目立たぬ者たち。
リアリズム的ってよりも、えっ?ていうのが石橋にも池松にもあったけれど、その発話、なにか漫画的。漫画的リアリズム、というのが現代的有効性になるのかな。石井は漫画チックに表すところあるから、そうした傾向もあるのかな。
東京の空の下って感じで、ドライであっても悲壮感はない。痛ましさはあっても、それと表裏してある、というか、手を取り合ってあるようなハピネスもまたそこには感じられる。おはよう、いただきます、と言って、これからも生活していこうという、普通に生きていくということ、それゆえに素直にそのこと掴み取ることできる。
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