町田くんの世界おもしろかったけれど、レヴュー見ると、かなり酷な評価が多いな、原作を知ってるヒトからすればそうなのだろうな。レントとキャッツは舞台を見てから観るとやはり、ステージの限定された空間で想像させていた拡がりが、セットもたてられ街という空間になったりやカット割りのおかげで萎んでしまったけれど、インザハイツは舞台を知らずに観たのでとても感銘した。それと同じだったのかな、町田くんの世界も同じように原作知らずゆえにか、楽しめるものがあった。
ホンワカしたのが観たいので、町田くんの世界、愛がなんだ、勝手にふるえてろ、を観る。石井今泉大九作品のなかでも重くはないけど、やはりそれぞれには切実なものがあるな。川の底からこんにちは、ハラがコレなんで、夜空はいつでも最高密度の青色だ、或いは、パンとバスと2度目のハツコイ、アイネクライネナハトムジーク、或いは、美人が婚活してみたら、甘いお酒でうがい、を思い出しながら、それぞれの傾向はこんな感じの印象をもつ。
大九明子:そこそこ幸せだけれど、それを気付いていない日常。いわば、不機嫌な果実。そうした果実が彼女自身とヒトや日常との距離感に生まれる内面の声のポリフォニーを発する。愛に包まれるなか、彼女は大切な日常に気付く。
今泉力哉:いつもの日常の中、夢焦がれる日がこないこと。夢焦がれるものは自ら求めるということ、清く正しい。 → 想像力
石井裕也:生きづらい世界、悪意に充ちた世界、不条理な世界(註1)に、一生懸命に生きる人間のパワーが表される。平々凡々の主人公はそこで相手の傷みを想像できる想像力と愛すること乃至恋することの本当の意味を知る。【 註1:であるが、(これまで観た作品のなかでだが、夜空はいつでも以外は)登場人物から口頭で発せられる乃至臨んでいるというぐらいで、そうした世界がしっかりと悲惨めいて描写されているわけではない。】
ニュースでパレスチナの出来事が出てきたりしてそれを見ると、生きづらい世の中なんて言っちゃいけないようにも思ってしまうのだけれど、こうした作品を観ると、生きづらい世の中といった、そうした傾向が作品に出ているように思える。ヒトとの距離感や想像力といったことが、少なくとも町田くんの世界、愛がなんだ、勝手にふるえてろには表されている。
ホンサンスには明らかにウディ・アレンとロメール色が出ているけれど、今泉には、言われるほど、それは感じない。アレンは好きなようであるが、ロメールは観たことなかったと言っている。この思い通りにならない日常世界において、夢焦がれるという想像力を持つことをアレンは説くが、なるほど影響を感じる。次回作も楽しみである。
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