かつては分かりやすいスラップスティック、例えば、キートンやサイレント時代のチャップリンといったフィジカルなコメディは笑えたが、枷が外れて無軌道にアヴァンガルドするものにはついていけなかった。けれど、数年前に、それまでくだらない喜劇にしか見えなかったドリフの映画版やコント55号の映画版がえらいおもしろく観れたことがあったけれど、これもクレールの幕間やブニュエルの黄金時代に陶酔したり、デリュック、ムーシナックなどエトセトラに耐え忍び観つつジャッカスを通過したおかげか。
『ジム・キャリーはMr.ダマー』
プロットがしっかりしているメリーに首ったけと違って、キャリーらの個性で引っ張っていく。しかしながら、デイヴスペクターのアメリカンジョークよりも分からないギャグの連発。過剰なまでの阿保があらわされる。そんな阿保ふたりのバディ・ロード・ムーヴィー。テーマはなにをやってもうまくいかないけれど友情はとても大事なもの。
男ふたりの珍道中。アメリカン的な個が表され、そして友愛が表される。ヘルマンの『断絶』にも表されるような、方向性も定まらぬまま生に向き合うセンスが、広大なアメリカンの土地をバックグランドにしながら旅の景色のなか表される。勘違いがミスリーディングを増幅させるのみの方向性が定まらないおもしろさ。オーディエンスは予定調和もないまま、宙ぶらりんになったまま連れていかれる。
初めの方、なにやっても上手くいかない等、暗くのしかかる現状がノワールに表される。特に初期の方であるがファレリーズにはこうしたノワールなものが表さられていた。たぶん多くのアメリカンが感じるであろう不平等な経済的状況やなにしても上手くいかない不条理的現況が表され、そこに共鳴されるセンスが届けられていたのではなかろうか。それでも、それはギャグにすぐに転嫁されそのこと深くは言及されることなかったけれど、グリーンブックといったシリアスな作品において、かつてのノワールな表されは復活し、そしてそれは探究されるものとして言及されることとなる。
ノワールも含めこのおバカな作品、映画はムーヴィーであり、ムーヴであることの再認識。動きであり、それは物体的なそれであると同時に心的なムーヴである。わけの分からない動きであっても、心の動きとはそもそもロゴスに完全に組み込まれない(ロゴスからみれば)破綻されたカタチでもあり、計り知れないものはダム&ダマ―に表される。
ラストはモダンタイムスのような、ふたりの歩く姿で終わるが、バスの女性たちとのやり取りなど、気が付かず取り逃がし上手くいかないことだらけは続こうとも、正直者に阿保に、そして友情を育ませながら生きていく姿にアメリカンらしさが表される。アメリカンが多く共鳴するものが満載の作品のように思えるのであった。
『俺たちニュースキャスター』
枷がアヴァンガルドに外れたパート2に比すれば、こちらは恋愛映画をベースにしたオヤジ青春もののしっかりしたプロットでストーリーが進行する。フェレルの主人公も2ほど無軌道ではなく、他のキャスターたちをまとめあげるリーダーの素質もみせ、阿保は阿保だが、かつてダンエイクロイドがやっていたような、無知な理性派的なキャラである。理性的であるが、なにも知らない。
いまはタリバン、かつてはアメリカ、と、女性を蔑む人間性が表される。バートレイノルズも出てくる。そしてサリーフィールドも出てくる。そういえばイーストウッドの新作、彼の最後に言い残したいマッチョが表されるのか。大の大人が子供みったいに行動し笑わせるSNLらしくあり、アメリカン・マチョイズモがこの作品で風刺される。ウェストサイド物語をパロってるかのような、キャスターなのに高校生のような派閥争いが表されたり、男同士の絆に女はいらねえな態度を表してみせたり、子供じみたいじわるをしても女子にはすぐに見透かされたり、とマチョイズモが風刺される。
アメリカンドリーム的には、サクセスへの夢追いと奈落の底への喪失が縮図的に表される。端的に分かりやすいアメリカの縮図の表され方である。アダムマッケイは、キーストンコップス以来の権威主義的ポリスをコケにすることはせず、ポリスを肯定するが(半分ぐらいは良いポリスはいるだろう、、いや40%は善人はいるだろう、、せめて4分の1はせめていてくれたら)、彼はリベラルな共和党派なのだろうか。バイスは仲間内への喝と思い遣りだったのだろうか。アメリカンドリーマーは滑稽に表されながらも、マッケイはそのドリームを信じて疑わない。なぜなら、アメリカは洒落っ気とアイロニーが満載の国なのだから。
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