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2021年07月09日13:37

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歌劇《死の都》(改)

6/13にNHK-BS「プレミアムシアター」で放送されたのはコルンゴルトの歌劇《死の都》。2019年12月のバイエルン国立歌劇場公演である。

歌劇《死の都》は、2014年の5月、同じ番組で放送されている。同年3月の新国立劇場公演だった。
ヤロスラフ・キスリングの指揮、演出はカスパ―・ホルテン。
以下にその日記へのリンクを貼り付けておく。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1926912833&owner_id=3341406
今回は、オペラの基礎的な部分の重複はなるべく避けてレポートする事としたい。

バイエルン国立歌劇場の公演は、指揮キリル・ペトレンコ、演出はサイモン・ストーン。
ホルテンの演出では、主役はジョルジュ・ローデンバック原作の「死都ブリュージュ」そのもの、つまり19世紀末のくすんだ匂いが濃厚なブリュージュの街だったと言う事ができるが、ストーン演出では、時代は現代に置き換えられ、パウルが使っているパソコンはマックだし、マリエッタはカラオケでアリアを歌い、人々の生活にはより快楽的で刹那的なムードが満ちている。これもまた面白い。

ホルテン演出の一番の特徴は「黙役」だった。
これはパウルの死んだ妻マリーの幻で、セリフも歌もない、ホルテンが創出した役である。
パウルがにいる時は常にこの幻も舞台の何処かにいる。パウルにだけ見えていて、他の人には見えないという設定になっている。
パウルは愛した妻の死を認められず、今もその幻と伴に生きている。
その黙役と、マリーに外見はよく似ていながら現世の快楽を追い求めてやまない踊り子マリエッタが舞台に併存する事で、パウルが死の世界に片足を突っ込んでいる危うい存在である事が、観客には明瞭に伝わったのだった。

ストーン演出で面白かったのはまずは舞台美術である。

オペラの舞台は、一般的に、広い1室が客席に向かって開かれたスペースとなっていて、何事もそのオーブンな場で起こるという造りが多い。
しかし、冒頭に舞台に現れるパウルの家は、壁とドアで閉ざされていて、小さな窓からしか中は見えない。

フォト

が、回転舞台となっているから、ステージが回ると、家の中の様子と、先程入口から入っていった人物が見えてくる。

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家の内部は案外複雑な構造になっていて、いくつかの部屋があり、その中に入ってしまえば壁の向うは観客から見えない。
パウルもマリエッタも、玄関と部屋間のドアや窓を通じ、歌いながら盛んに入ったり出たりを繰り返す。
しかし、一旦見えなくなっても、また舞台が回れば、その内側は見えてくる。
パウルがマリーの遺品(彼女の美しい金髪や衣服)を隠し、思い出の写真を部屋中隙がない程貼っている奥の小部屋(パウルは「神殿」と呼んでいる)、その部屋に座り込んでパウルが過去の日々に浸っているのも明かされる事となる。

   フォト

第2幕、パウルが自宅を出て歩きだすと、ステージはガラガラと回って、彼の家はブリュージュの街の家々につながっている。街にはパウルの友人のフランクの家もあり、マリエッタと遊び仲間達の溜まり場もある。
パウルは自宅のドアを開け、別のドアから誰かの家に入り、室内のドアを開けて次の間へ入り、またドアを開けると通りに出る。そして細い辻から辻へ。
舞台が回っていくので、パウルはその中央一ヶ所を歩いているようにも見える。家々も、外と内が次々に露わになる。

フランクもいつの間にかマリエッタの虜になっていて、2階でシャワーを浴びながら、通りすがるパウルに喧嘩を売り、マリエッタ達は酒を呑み、現世離れしたパウルへの皮肉を肴に乱痴気騒ぎしている。

舞台が回るうちに、開け続けるドアの向うが一体何処なのか、観客は判然としなくなる。
ここは何処か、現実か妄想か、この世かあの世か。
女はマリーなのかマリエッタなのか。
パウルは遂にコケティッシュなマリエッタの誘惑に負けて彼女と一夜を過ごす。

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舞台美術としては、マリーの遺品の髪の表現も興味深い。
《死の都》で演出のキモの1つとなるマリーの金色の遺髪は、ただ束ねて房状になっていたり、いろんな編み方をしていたり、髷状になっていたり、これ迄、演出家が様々に凝らしてきた。
今回の場合は、ふさふさとした総カツラのような状態になっており、パウルは、それを人の頭型のスタンドに載せて例の小部屋に隠している。
どのようにしてパウルがそんな形状で残す事ができたかは、想像に任せよう、論理的に説明しようとするのはまあ野暮というものだ。

第1幕後半、パウルがマリエッタの快楽に吸い寄せられようとする気配を感じたか、マリーの亡霊が心配そうに現れる。何故か彼女の頭はスキンヘッドである。
物神崇拝者のパウルにとって、愛する妻の遺された髪、それは朽ちゆく遺体とは切り離された特別の物として生きているのに違いなく、ならば亡霊の頭は確かにスキンヘッドであっておかしくない。飛躍する発想だが面白い。

第3幕は再びパウルの自宅である。
この日、ブリュージュではキリストの昇天祭の「聖血の行列」が行われる。この行事はユネスコの無形文化財にも登録されていて、今も毎年その祭がある。
第2幕の最後でマリエッタの誘惑に負けた事を悔いるパウルは、その行列が家の中に迄ぞろぞろと入ってきて、我が身の穢れを責めるように思える。
聖歌隊の女達は、不思議な事に全員がマリーの特徴的な柄のワンピースを着ている。
そして、パウルの家の中を何人ものスキンヘッドの女達が歩き回る。女達は皆、後ろで紐を締める入院用の病棟衣を着ている。
マリーは抗がん剤治療も虚しく死んだのかもしれないとふと思う。

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マリエッタはそんなパウルを見て焦れてくる。生きているものが何故死者に調伏されなければならないのか。
この舞台の過剰な程のエロティックは、死への抗いに他ならない。
マリエッタは死んだ筈のマリーと戦うため、例の小部屋を開け、彼女の遺品を蹴散らす。そして、遺品の中から例のカツラを見つけ、ふざけて自分で被り、パウルを弄ぶ。
カッとなったパウルは、カツラを剥ぎ取り、それでマリエッタの首を絞める。
コルンゴルトの音楽はその狂気と暴力、そしてマリエッタの死を、見事に描き切っている。

そして、舞台が回転し、一夜が明ける。
このあとの物語の展開については賛否両論があるが、ここでは触れないでおく。

1920年、第一次世界大戦後に初演されたオペラだが、狂気と暴力はリヒャルト・シュトラウスの《サロメ》(初演1905)を、マリエッタのアリア〈私に残された幸せは〉とラストの展開の仄の甘さ(または仄の苦さ)は《ばらの騎士》(1911)を想わせる。

ペトレンコの指揮は、遅れて後期ロマンを生きたコルンゴルトの音楽とオーケストレーションを、耽美に押し流されず、理知的な構造分析力と、多様な楽器の音の明瞭な粒立ちをもって、現代に引き摺り出している。
マリエッタとマリーの亡霊、生と死の2役を演じたマルリス・ピーターゼンは、ペトレンコと組んで《サロメ》も、ベルクの《ルル》もタイトルロールを演じているらしい。彼女のサロメやルルを是非観てみたいものだ。(昨年からこの夏に延期された二期会公演の《ルル》を私は観る予定にしている。)
彼女も、生々しさの現代的表現では群を抜く存在で、ペトレンコと相性がいいのはよく分かる。


これはおまけだが、上に掲げた写真でパウルの家の寝室の壁にジャン=リュック・ゴダールの映画《気狂いピエロ》(1965)のポスターがパネルにして掛かっているのが分かる。
もう1つ、居間にはミケランジェロ・アントニオーニの《欲望》(1967)のポスターが掛かっている。

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この2作は、ある意味で世紀末の『死の都』の現代的焼き直しでもある。
または、ストーンがこの2作をキーにして今回のオペラを演出したと言うべきか
パウル役のカウフマンとマリエッタ役のペータ―ゼンの煽情的な戯れは、ポスターの男女の形象と響き合っているのが、この写真から分かる。
また、マリエッタ達の溜まり場の乱痴気騒ぎは、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』(1971)を下敷きにしている。


演出 サイモン・ストーン
再演演出 マリア・マグダレーナ・クヴァシク
美術 ラルフ・マイヤーズ
衣裳 メル・ページ
照明 ロランド・エドリッヒ

出演
 パウル ヨナス・カウフマン(T)
 マリエッタ/マリーの亡霊 マルリス・ペーターゼン(S)
 フランク/フリッツ アンジェイ・フィロンチフ(Br)
 ブリギッタ ジェニファー・ジョンストン(Ms)
 他

指揮 キリル・ペトレンコ
演奏 バイエルン国立歌劇場管弦楽団/合唱団/児童合唱団

収録 2019年12/1,6
 
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