『ヘルタースケルター』
消費品としてのトレンドはそうでありたくない。永遠でありたい。しっちゃかめっちゃかの、その先行きのなさ、奥行きのなさこそがカルチャーと溶け合える。中盤の水族館のシークエンス、大森南朋がタイガーリリーに会いに行く。ここで、この作品は男と女の物語でもあったのかと思わせられる。ハードボイルド性ある見方でのそれ、欲望に疲れた女と嘘をあばく男が向き合う。水族館は蜷川実花に合っている。都会の孤独が癒される。消費品としてのトレンドは永遠でありたい。しかし、『人間失格』と同じように頂点からおちていく過程が作品には表される。中盤まで、欲望の果てでの疲れのジレンマが表される。彼女は引退のきっかけを待ってるかのようである。水原希子の登場で、彼女の永遠に向けての模索が表されてゆく。彼女は永遠に向けて堕ちてゆく。だからこそ、そうした枠内の展開ながらも、生きている感覚に充ちている。『さくらん』と『人間失格』と同じように、生きている感覚に充ちている。永遠に堕落すること、それがカルチャー論として表される。この作品の宣伝コピー「見たいものを見せてあげる」、人々の期待に応える。最後の最後まで、彼女は生を充たす。最終盤の血の涙、その表層だけの痛みを輝かせる。彼女はもはや都市伝説化し、消耗品ではなくなる。ラストクレディット、カラフルにヴィジュアライズしなかったのは、彼女の笑みを活かすためなのだろう。
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