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2019年06月05日10:00

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奈良・京都の旅〜興福寺��

(続き)

丹色の太い柱の間から真新しい中金堂に入る。
中央に安置されているのは、本尊 木造釈迦如来坐像、江戸時代1811(文化8)年に仏師 赤尾右近によって造られたもので、都合5代目の計算。今回の再建前に修理され、全身キンキラに光っている。

近くにいたOさんが内柱の1本を指差し、真新しい日本画が描かれているのを教えてくれた。
堂内で解説をしている係りの人に尋ねると、興福寺の依頼に応え、畠中光亮(1974- )という奈良の日本画家が2016年に描いたものだと教えてくれた。
係り員氏は、話しかけてくれて嬉しかったと見え、いろいろとお話をしてくれた。
まずは自分のスマホをポケットから出して見せると、待ち受け画面にあった2ショットは自身と畠中光亮が一緒に写った写真だった。
畠中画伯をこよなく愛している様子で、彼についていろいろ話して下さった。

興福寺は法相宗(ほっそうしゅう)の寺院で、いつ迄遡るか不明だが、少なくとも1046(治承3)年の火災後に書かれた『造興福寺記』には、「法相柱」の事が書かれている。
「法相柱」とは、法相宗の教義(唯識)を確立・発展させた14人の祖師を描いた柱の事で、無著・世親菩薩、玄奘三蔵、慈恩大師、解脱上人等が含まれる。
絵は、ここに貼り付けられる前、「興福寺の寺宝と畠中光亮展」と称して全国を巡回した、との事である。

係り員氏、当方は尋ねていないのだが、そのうち「法相柱」を離れ、須弥壇に鎮座する小さな厨子の事、興福寺の今後の復興計画の事等についても、話して下さった。
曰く、《厨子入り 木造 吉祥天倚像》は、南北朝時代の作品で、黒漆で塗られた厨子は高さ約1m、その中に秘仏 吉祥天倚像が納めてある。吉祥天は椅子に座っており、大変にふくよかな白いお顔、着物も美しく殆ど退色がない。扉の内側を含め、厨子内には数々の絵が細密に描かれている。年に一度、正月の「吉祥天会」(1/1〜7)の時にのみ開扉される由。

更に続けて、中金堂を出るとスロープの箇所に、興福寺の主要な堂宇が全て見渡せるスポットがある。帰りに寄って見ると宜しい。このスポットからの景色はそのうちに見る事がでくなくなる。何故かというと、じきに回廊の建設が始まってしまうから。
五重塔もよく見ておくように。実は2年程のうちに五重塔の改修工事が始まる。始まったら10年はかかる。その期間は幕に覆われたままになってしまうから、当分あの均整の取れた五重塔は見る事ができなくなる。

今秋10/17〜11/10の間、特別開帳で、南円堂と北円堂を同時に観られる機会ができた。
北円堂は毎年春と秋に2週間ずつ開けている、南円堂の方は毎年10/17の1日のみ。
これを、今秋は上記期間同時にオープンする。めったにないチャンスなので、是非お参りさない、そうお話して下さった。
知らない情報をいろいろと頂き、ありがたい事だった。

係り員氏の話から離れ、中金堂ではもう1つ書いておきたい事がある。
入口から入った時だが、四天王立像のうち一番近くの1体が目に入った。南西の角にいる増長天だった。

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隣にAさんがいたので、私はついおしゃべりした、これ運慶仏かもしれないんですよ。
運慶仏と認定されているのは国内11の寺に31体。そのうち私は30体迄観たので、あと1つ残すだけなんだけどね、でも、この四天王像が運慶だとすると、11寺35体になる計算なんですよ。
(いや、30/31の話はYさんKさんとしたのだったかもしれない。)

Aさんは、そう?でも着物がごちゃごちゃしていて運慶っぽくないような、と仰っていた。

それにしても、単純ならざる表情である。
伏した目は目前の物を見ているのではないようだ。この目は、無著菩薩に通ずる。前者は浮彫り、後者は玉眼だが。
そして、何かを噛み殺すような、じっと我慢するかのような顎。
全身の造形も凄い、こんな四天王像は他の何処にもない。捩じった腰を中心に、腕の動きが間一髪のバランスを保ち、剣が斜めに身体を切断するように見えて、彼の身と心が2つに分断されている事を象徴しているかのようだ。
古い仏像に近現代的な読解を加えるのは好ましくないが、そうしたくなる程にこの像は新しい時代の苦悩を包含している。

表情はともかく、「これ運慶仏かも」の話の背景には、2017年東博で開かれた「運慶展」があった。

先に興福寺には四天王像がたくさんあると書いた。そして、火事の被害を含む時代の変遷と伴に、四天王像だけでなく、各像があちこちの堂に移動せられる事が、まま発生する。
現在中金堂に置かれている四天王立像は、2017年の「運慶展」当時は南円堂にあった。2018年に中金堂ができて、移動したのだ。
そうこうしているうちに、造像当時何処に何が設置されていたか判らなくなってしまう。
鎌倉時代(12-13世紀)に制作されたとされる《興福寺曼荼羅図》(京都国立博物館蔵)という古絵があって、そこには各堂に置かれた仏像群が描かれている。
北円堂は南都焼討ち(1180)で他の全堂と伴に焼失し、各堂が順次再建される中、最も遅く1210(承元4)年にようやく建て直された。
《興福寺曼荼羅図》の北円堂の部分をクローズアップして見ると、9体の像がその中にある。
本尊は弥勒如来、その両脇に無著・世親像が小さく、しかしリアルに描かれている。
無著・世親像は、この北円堂再建計画に合わせ、1208に着工、1212年に完成、すぐ同堂に納められた。
この9体全てを晩年の運慶(?-1223)とその一門が造った事は、別の文書(*)で明らかになっている。
曼荼羅図の四隅にいる四天王像を見ると、今話題にしている中金堂の四天王像と彩色などがよく似ている。
元々専門家の間では、この四天王の造形性格は運慶に通ずるところが多いと言われてきた。
そこへ、《興福寺曼荼羅図》の解釈が入り、可能性は更に高まった。
2017年の「運慶展」では、仮説として、展示会場に再建当時の北円堂内を構成する試みがなされ、本尊弥勒如来坐像(これのみ写真パネル)の両側に無著・世親立像を置き、更に四隅にこの四天王立像を置いたのである。

(*)…藤原氏を束ねる氏長者として北円堂造立に出資した近衛家実の日記『猪隈関白記』に「仏師は法印運慶」とある…図録『運慶』〜西木政統著 コラム『仏像の作者は誰か』

参: 「運慶展」レポート)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1963649721&owner_id=3341406

この仮説は、[芸術新潮]2017年10月号の運慶特集でも、瀬谷貴之によって支持、展開された。

今回興福寺中金堂を訪れた時に、私がAさんに「これ運慶仏かも」としゃべったバックボーンはここ迄である。
が、この話には、思わぬ続きが出現する事となる。
それについては、また後日書き足せたらと思うが、さてどうなるか。


四天王の名称と画像をまとめて下に貼り付けておく。
(時代と安置位置によって異なる名称で認知されていた事もあり、資料や本によって異なる場合があるので要注意。)
  ・持国天 ・広目天
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  ・増長天 ・多聞天
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中金堂を辞した時、時間は10:00過ぎだったかと思う。
係り員氏の言葉を思い出して、スロープから四囲を見回してみたり、もう一度五重塔を見上げてみたりしていると、Oさんが来られて、「このあとどちらに行かれますか?私達は"ならまち"の方に行って、買い物を」と仰る。
当日は北円堂も南円堂も開いていない事は判っている。11:20に集合すれば、それ迄の間、何処へ行くのも自由である。
私は時刻を見て考えながら、「新薬師寺に行こうかなと思っています」と答えた。
OさんはAさんと一緒に猿沢池の方へ歩いていった。

新薬師寺は、興福寺から南東へ、車なら10分程の距離。有名な国宝 塑像十二神将がある。以前から是非観たいと思っていた。

さて、タクシーが何処で拾えるか分からないが、とり合えず興福寺南の三条通を東に、春日大社の赤鳥居迄出るが、空のタクシーには1台も擦れ違わない。
赤鳥居前から、国道を北へ上がる。
そのうち拾えるだろうと高を括っていたが、一向に巡り会わない。
広い大宮通りに出ても、状況は変わらない。
今日も頭上の太陽は照り付けて、もう30℃は超えているに違いない。
芝生の上を歩いていくと、シカのまるまったフンがいっぱいあって、つい踏んづけそうになる。
そうだ、県庁前に行ってみようと思い、汗を拭きつつ歩を進める。
確かに県庁前にはタクシー乗り場の看板があったが、タクシーの影はない。
看板にタクシー会社の電話番号が書いてあるのでスマホからかけると、近くで空いている車は1台もないらしい、県庁前なら、道で拾う方が早いですよ、と言われてしまった。
拾えるもんなら電話等しない、と返したいところだったが、何の足しにもならない。
繰り返し手を挙げて止めようと試みるが、どのタクシーにも客が乗っている。
日曜日の奈良公園周辺ではタクシーは拾えない、新たな悟りに開眼して、私はひとつ成長したような落胆したような。

時間は10:30を過ぎたので、とうとう諦め、閉まっているのは知っているけれども、外から南円堂と北円堂を眺めようと、興福寺にまた戻った。
南円堂の手前で、YさんKさんに逢い、会話しながら一緒にそぞろ歩いた。
娘達にと思い、土産物店も覗いたが、格別なものは見つからなかった。
裏手の北円堂迄歩いてくる観光客はあまりいなかった。扉の隙間から中が見えないかと思ったが、大分手前の門を閉ざしていて近寄れなかった。
まだ出逢っていない最後の運慶仏1体は、実はこの中に鎮座しておわすのである。

集合時間が近づいたので、シカを掻き分けつつ、奈良公園の外に出た。
歩道にもシカはいっぱいいて、エサを貰おうと、さかんに頭を下げたりする。
乱暴な性格のものもいて、角を持つ1匹の雄は、私の持っている紙袋をくわえて引きちぎった。中に食べ物は何も入っていないので、彼には残念な事だった。

県庁前を5分程西に歩くと、集合場所である春日ホテルに到着した。
既にロビーで待っているメンバーも何人かいた。
私はここの売店で、「鹿サブレ」を2箱お土産に買った。これならチビちゃん達が喜ぶかな、と。
ならまちに行ったOさんとAさん2人連れも、重そうな紙袋を手にして入ってきた。
素敵なデザインの手拭いやらはいいが、大きな奈良漬が重たいらしい。

11:20、ホテル内、和風レストラン春日での昼食は「万葉弁当」である。

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期待したが、万葉の時代の食の復元という訳ではなかった、小鉢9種の盛り合わせに、赤い古代米のご飯と大和茶麺、最後にデサートは万葉プリンに非ず、マンゴープリン。
見た目以上にお腹はいっぱいになった。

12:15、春日ホテル前につけてくれたバスに乗って出発。
奈良のプログラムはこれで終わり、帰りには京都国立博物館に寄る。バスで1時間強である。


(続く)
 
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