11/10(金)、浜松駅8:50発の新幹線こだまで東京に向かった。
10:47東京駅着、先に四谷のホテルに行き、荷物を預けてから上野へ。
見学の前に腹拵え、アトレの「まいか(米香)」で牛すき焼き御膳。1,380円。ご飯をおかわりする。
昼から呑みたい気持にもなるが、我慢。
混んでいる事は聞いていたので、上野公園内を早足で東京国立博物館へ。
チケットは前売りを買ってある。
平成館の入口前には列が並んでいて、50分待ちとの表示。鳥獣戯画展や若冲展を経験しているので、たいしたことはないとの思い。
実際は40分程で、14:00前には入館した。
・会期 9/26〜11/26
どんな展覧会でも入ってすぐの辺りが一番混み合うのは判っているので、この運慶展では、まず何よりも目当ての第2章へ。
興福寺北円堂の仮説コーナーがここにある。
「何よりも」と書いた訳を話すには、大分時間を遡らねばならない。
謂わば
”私的運慶の旅”の履歴、そのあらましである。
1) まず、2008年2/11読売新聞1面トップの記事「運慶、米で競売へ。文化財未指定品。海外流出の恐れ」が大きな話題に。
ニューヨーク・クリスティーズのオークションに運慶仏が出品され、競売となった。
結果、米人資産家と三越百貨店が最後まで競り合い、後者が1,280万ドル(約12億8,000万円)で落札した。実は三越は仮面で、実際の購入者は宗教法人「真如苑」だった。
2) 月刊[芸術新潮]2009年1月号に運慶特集。主幹執筆者 山本勉。
掲載された写真を見て、無著世親菩薩立像や重源上人坐像の生々しさに驚愕。
運慶作とほぼ認定されている像は、日本に11寺31体(他説も)との事。私が住む所から遠くない場所にもあるらしい。何とか全部観たいものだと思ったのは、この時が最初である。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1079563431&owner_id=3341406
「オークション競売」の新聞記事についても、この日記のコメント欄に書き加えている。
3) 2009年4/14、「国宝 阿修羅展〜興福寺創建1300年記念」/東京国立博物館で、興福寺西金堂の木造〈仏頭〉を観る。これが実際に生で観た運慶第1号。
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4) 2009年8/7、愛知県岡崎市瀧山寺(滝山寺)に行き三尊を観る。
聖観音菩薩立像、脇侍は梵天立像と帝釈天立像。なまめかしい塗装は江戸時代の後補。
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5) 2009年12/26、学生時代の文学仲間と神奈川県横須賀市の浄楽寺に行き5体に会う。
阿弥陀如来座像、脇侍 観音菩薩立像と勢至菩薩立像、更にその外側に不動明王立像と毘沙門天立像。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1374161445&owner_id=3341406
6) 2010年4/5、奈良東大寺裏山の小さな俊乗堂で重源上人坐像、続けて、圓成寺で運慶デビュー作 大日如来座像。
翌4/6には京都へ移動、六波羅密寺で地蔵菩薩坐像を観る。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1456119958&owner_id=3341406
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東大寺では勿論、金剛力士立像(仁王像)2体も金網越しに観ているが、これは、高校時代に既に観ているから初めてとは言えない。
7) 2011年4/24、神奈川県立金沢文庫で開催された運慶展を観る。
ここには全部で6寺7体の運慶仏が持ってこられていたが、初めて観たのは以下3体。
栃木県足利市 光得寺の厨子入り大日如来座像、東京都立川市 真如苑真澄寺の大日如来座像、神奈川県横浜市金沢区 称名寺光明院は像高僅か21.2cmの大威徳明王像。
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8) 2011年11/24、静岡県伊豆の国市 願成就院の5像。
主尊は阿弥陀如来座像、その両脇に毘沙門天立像と不動明王立像、更に後者の脇に二童子立像(制咤迦童子立像及び矜羯羅童子立像)。
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9) 少し年月が飛び、2014年10/31、サントリー美術館の「高野山の名宝」展に行き、和歌山県高野山金剛峯寺の八大童子立像(運慶仏は内6体、制咤迦童子,矜羯羅童子,恵光童子,烏倶婆誐童子,恵喜童子,清浄比丘)を観る。
高野山は元々行きにくい上に、金剛峯寺に直接電話して訊いたところ、八大童子はいつも観る事ができる訳ではない、1体か2体か、陳列は不定期である由。したがって、サントリー美術館展は良いチャンスだった。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934716178&owner_id=3341406
ここまでで11寺28体の運慶仏を観た事になる。
1寺に複数を所蔵するところもあるから、寺の数は既に上限値になっていて、もう増えない。
像の方で
残るのは、興福寺北円堂の3像のみである。
同像は春と秋、不定期の特別開陳の機会をとらえるしかなく、計画も立てにくい。
全数踏破は実現できないかもしれないと、ネガティヴな思いがもたげてきていたところへ、今展の知らせが1年程前に入ったのである。
欣喜雀躍の思いでこの展覧会を待っていたのだから、まず第2章の北円堂仮説コーナーに飛んでいくのは当然だ!
10)さて、今回、2017年11/10に行った興福寺中金堂再建祈念特別展「運慶」〜北円堂仮説コーナーである。
人混みの中を、まずコーナー向かって右、兄の無著菩薩立像の下に近寄り、オペラグラスで見上げる。
レンズの焦点をじわっと上げていくと、彼の玉眼にぴったり合った。それは、私のような者でも慈しみ、許してくれる目である。
つい我が目も潤んでしまう。
194.7cmの大きな体だが、威圧感を感じさせない。繊細な指は袋に入った物をそっと支えている。中に入っているのは舎利容器が仏鉢か。
北円堂は舎利信仰が柱になっているというのが最近の説で、とすると前者の可能性が高いかもしれない。
衣服はぞろりと垂れていて、その幾重もの襞も、木でできているとは思えない。よく見ると、衣装には赤や緑他の豊かな色彩で細かな紋様がいっぱい描き込まれていたであろう事が判る。
左側に回ると、横の額には血管が浮き出ている。ヘの字に結んだ口の脇には皺が何本も寄っている。
弟の世親も像としての基本的な狙いは同じだが、顔付きには少し厳しさが残る。像高は191.6cm。
無著の表情には諦観も漂うが、幾分か若い世親の方には(乱れた人の世に対する)怒りも見られ、それを噛み締めようとする目である。がっしりした顎で、玉眼は少々赤っぽく感じられる。
それは時間経過による水晶の劣化か、塗色の化学的変化か、または、当初から2体をどう対比させて作るか思考の末の業か。
制作は1208年に開始され、1212年に完成されたと考えられている。
興福寺は、東大寺と伴に南都焼討ち(1180)で焼失したが、1194年の供養までで殆どの建物が復興させれられた。
しかし、北円堂のみずれ込み、1207年にやっと工事が始まった。中の仏像はその翌年1208年になってようやく手が付けられた。
無著世親菩薩立像は、父であり棟梁であった運慶と、6人の息子の内 五男運賀と六男運助とで共作したようだ。無著が運助、世親が運賀と想定されるが、運慶と具体的にどのように仕事を手分けしたのかは判っていない。
一般的仏像神像に見られる類型性はなく、生身の人間をモデルにして作ったように見えるその手口は、やはり運慶の熟練が伴わなければ不可能だと思われるのだが、裏付けとなるようなものは何一つない。
31体ある運慶像の中で、この2像の表現と酷似するのは、東大寺俊乗堂の重源上人坐像だ。
同像は運慶作と考えられてはいるが、直接的な物証はない。
これまで1206年、つまり重源上人没後すぐの作と考えられてきたが、最近になって、生前の1200年、80歳の賀に作られたであろうという説が持ち上がっている。
確かに、記憶でなく、実際に見て作ったと考えた方が、この像のリアリティの信憑性はある。
無著世親も生きているモデルを前にして制作しただろう。
元々彼等はインド4〜5世紀の高僧だから、2人をモデルにする事は叶わない。誰かは判らないが、日本人から選出した男を見ながらこの2像は作られただろう。架空の想像や粉本からでは、こんな生気と個性に満ちた像は作れない。
北円堂の本尊は弥勒如来座像で、これも運慶一門が制作した。
今展にこの像は来ていない。
結果、私の運慶仏と会う旅は、都合11寺30体となり、1体のみ残す勘定になる。
現在、北円堂にある運慶仏は3体だが、
歴史史料からすると、運慶一門11人の大仏師が集まり、北円堂に9体の仏像を作った事になっている。
大仏師の下には小仏師がいる。
今の北円堂には、運慶作の3体以外に、脇侍として法苑林菩薩坐像と大妙相菩薩坐像、そして四天王像が安置されている。
その脇侍は室町時代の作、四天王は平安時代初期に作られた木心乾漆造りで、他の寺から移動されたものらしい。言うまでもなく
運慶作ではない。
では、
運慶一派が北円堂のために作ったとされる残る6体の仏像は何処に行ってしまったのか? 焼失したのか?
これに部分的に答える仮説が最近現れた。
即ち、
同じ興福寺の南円堂に安置されている四天王立像が、元は北円堂にあったもので、それらが運慶一派作だと言うのだ。
この説を最初に唱えたのは瀬谷貴之で、[芸術新潮]2017年10月号の運慶特集は、彼が主幹執筆者である。
現在、東京国立博物館でその四天王立像のCT撮影を進めるなど、確証となるものを探しているが、まだ見つかっていない。
だが、作りや造形は運慶仏と非常によく似ている。
多聞天の肌色は本来黒だが、この四天王の中のそれは白色だ。それは、前述した舎利信仰から説明ができる、と瀬谷は言っている。左手が高く掲げる宝塔は舎利が入っていると考えれば、その他にない姿勢も説明ができるというもの。
今展も、この仮説に賛成する立場を採っていて、
第2章では前述の通り
「興福寺北円堂の仮説コーナー」を設けている。
本尊 弥勒如来座像は写真だが、その横に無著世親立像を置き、更にその周囲に、南円堂から持ってきた四天王立像を置いて、鎌倉時代初期の北円堂内を現出させているのである。
これは実に興味深い試みだ。
だとすると、運慶仏の数は11寺35体という事になる。
真実か否かは今しばらく研究を待つとしても、今後もまだ他から運慶作の仏像が発見される可能性はある。歴史上の書物などで、運慶が作ったと書いていながら、見つかっていないものがかなりの数に上るし、今展にも展示されているが、世の中で運慶仏に似ているけれども確証はつかめていないというものも多数存在する。
話したいことはまだ多々あるが、今展の構成を書き添えておしまいにしよう。おおよその流れはお判り頂けると思う。
第1章「運慶を生んだ系譜〜康慶から運慶へ」
…8件の展示。運慶作とされるもの2件(2体)含む。
第2章「運慶の彫刻〜その独創性」
…16件。四天王、主尊と脇侍などは1件とカウントしている。運慶作とされるもの11件(19体)含む。興福寺南円堂の四天王立像は、この時点ではまだ運慶作に数えていない。
第3章「運慶風の展開〜運慶の息子と周辺の仏師」
…13件、運慶作とされるもの1件(1体)。
(続く)
〈参考資料〉
・NHK-BS 10/7放送『仏像ミステリー〜運慶とは何者か?』ディレクター 中沢一郎
・BS日テレ10/13放送[ぶらぶら美術・博物館]『運慶展〜天才仏師の国宝』ディレクター 工藤祐希
・NHK-Eテレ10/15放送[日曜美術館]『仏師運慶〜時代が生み出した天才』ディレクター 伊藤博克
・[芸術新潮]10月号特集『オールアバウト運慶』主幹執筆者 瀬谷貴之、新潮社2017年10月発行
・運慶展図録『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』執筆者 多川俊映(興福寺貫首),浅見龍介(東京国立博物館主任研究員) 他、朝日新聞社,テレビ朝日2017年9月発行
…浅見龍介は、上の2つのテレビ番組にも解説者として出演していた。
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