5/23(木)、静岡文化芸術大学の授業[芸術と社会]の第5回目聴講。
今回は視点を変え、「グランドツアー」について。
第2〜4回の都市論と重複部分あり、並行して学ぶ事。
講師 小針由紀隆
◆「グランドツアー」とは?
・貴族(特に英国)の子息(殊に長男)を、何処に出しても恥ずかしくない国際人にするため、当時文化先進国であったフランスやイタリア(*)に送り出した。
(*)最終目的地はイタリアであって、フランスで終わるグランドツアーはない。
島国で且つ文化的には後進国であった英国に置いておいたのでは、国際人を育成するに不十分であるという意識が強かった。
・16世紀中頃〜19世紀前半。
貴族が財力を持った頃。
最盛期は1760〜90年代。
◇グランドツアーの文化史的・精神的背景
・イタリアに行った事のない人は、当然見るべきものを見ていない、という劣等感に苛まれた。
このコンプレックスから何とか逃れたいという気持ちがあった。
◇グランドツアーの衰退
・フランス大革命(1789〜)。
・ナポレオンのイタリア戦役(1796-97)。
ナポレオンは、イタリア北部でオーストリア軍を打ち破ったのち、1797年にヴェネツィア占拠。
これにより、1100年間続いたヴェネツィアの共和制が崩壊した。
・大陸封鎖令(1806)。
ナポレオンはイギリス支配を念頭に置き、ヨーロッパ諸国とイギリスの通商断絶を図って、ベルリンで勅令を出した。
これらにより、英国から大陸への渡航が不可能になった。人だけでなく、郵便や荷物も不通となった。
例)英国画家ウィリアム・ターナー(1775-1851)はまさにこれにぶつかり、ヨーロッパに渡航する事がなかなかできなかった。夢が叶ったのは1819年、44歳になってから。
それ迄ターナーは英国国内にいて風景画を描き続けた。
◇1720年代に定式化された旅程
・イギリスからフランスを経て、最終目的地イタリアへ。
英国のドーヴァ―→フランスのカレー、最短距離のドーヴァー渡航。→陸路パリへ。
・2つのコース
a) パリ→リヨン→スイス。モン・スニ峠からアルプス越え。→トリノ→ミラノそしてフィレンツェへ。
b) パリ→リヨン→マルセイユorニースから海路、ジェノヴァorリヴォルノへ。
a) では、細く長い未舗装の道を馬車でアルプス越えするのは困難な旅だった。山賊に会う事もあり、拳銃を持っていった。
b) では、自然の影響を受け易く、こちらでも海賊に会う事を想定して行かねばならなかった。
・チームでの旅行
a),b)の対策として、グループを組んで出かけた。
グループを組むに際して、最も重要なのは家庭教師であった。
当時の英国で第1級の哲学者や経済学者等学識者に同行を依頼した。
例)トマス・ホッブス(哲学者),ジョン・ロック(哲学者),アダム・スミス(経済学者),デイヴィッド・ヒューム(哲学者)等々。
同行者側にも恩恵があった。
まず報酬。報酬は次第に跳ね上がっていった。
他に、大陸の君主の宮廷,教会との面識を得る事ができた。
彼等の関係下にある演劇,音楽,建築,美術コレクションの鑑賞,ファッションの取り入れ、学者,文人,芸術家とのコネクション形成、気候,地形,風土の理解等々。
これらによって、彼等自身も見聞が拡がり、教養は深まった。
随行者には画家も必要だった。
・写真機発明(1839)普及以前の時代の旅の記録。
・名所旧跡,風光明媚な土地の景色を素早く描き留める専門的技能。
これには油彩よりも水彩画が適していた。
ヨーロッパ大陸各国にない英国における水彩画の発展は、グランドツアーに促された結果とも言えるだろう。
◇イタリアの磁力
・古代遺産:多くの遺跡、美術品。
・艶やかな自然:北方では多い霧がなく、天候が好く、明るく、自然も建築物もくっくり見える。植物も多様な生態。豊かな異国情緒。
・精神の揺り篭:古代ローマに見る、ヨーロッパ人としてのアイデンティ、バックグラウンド。
・イタリア統一以前の多様な自治都市の歴史、芸術、文化。豊富な食文化(殊に海産物)。
英国批評家ジョゼフ・アディソン(1672-1719)の言葉(1705)。
「イタリアほど旅して楽しく、得るところの大きい土地はない」、
「イタリアほど多様な統治形態がある国はない」、
「国のどこをとっても有名で、河や山でさえ何か目覚ましい事件の舞台となったことがある」。
リチャード・ラッセル(1603-68)著『イタリア旅行』(1670)の発行と流行。内容は、イギリス語によるグランドツアーのガイドブック。
・ローマにおける古代彫刻の公開
ヴァチカンのピオ=クレメンティーノ美術館(ピウス6世&クレメンス14世による)、18世紀後半。《ラオコーン像》公開展示は1506年。
カピトリーノ美術館、1471年。
鑑賞眼を養うには、良いもの(評価の定まったもの)をたくさん見るべし、という基本的考え方。
例)《ラオコーン像》
ギリシア神話のトロイアの神官と2人の息子が海蛇に締められているところ。古代ローマの石彫作品。1506年、皇帝ネロの宮殿近くから出土された。高さ2.4m。
ピオ=クレメンティーノ美術館蔵。
激しい動き、感情表現、バロック的要素の形成に影響を与えた。
《ベルヴェデーレのトルソ(*)》
ヴァチカンの展望室(ベルヴェデーレ)に置かれている事から名付けられた。
首、腕、膝から下を欠損した、古代ギリシア時代の男性石像彫刻。高さ1.6m。
15世紀初頭の発見以来、半壊状態で展示に値しないと考えられてきた。が、19世紀になって、半壊でも美術としての価値が高いと認められるようになり、展示されるに至った。
右に捻った肉体の動的表現力の妙。
(*)「トルソ(torso)」は「切り株」の意。
19世紀後半、ロダンの制作に影響を及ぼした。
ロダンはトルソをたくさん作った。
《ベルヴェデーレのアポロ》
古代ギリシア彫刻の古代ローマ時代の摸刻か。
18世紀における古代美術の観方、
・自然より完璧な理想的美
・男性裸体の究極的美
グランドツアーを通じて、重要作品のコピーが、アカデミーや美術館のために作られた。
◇ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717-68)
ドイツ人司祭、美術史家としてローマへ送られた調査研究グループに加えられる。
『ギリシア美術模倣論』(1755)
世の中には絶対的な美が存在する。古代ギリシアの美術がそれに当たる。
『古代美術史』(1764)
近代以前の美学に多大の影響を与えた。
→帝国主義/白人至上主義思想との接近
参;文芸大聴講[保存と修復]より)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968820866&owner_id=3341406
◇ナポリのゲーテ
『イタリア紀行』(1787?)より、
「ナポリは楽園だ。人はみな、われを忘れた一種の陶酔状態で暮らしている。私もやはり同様で、ほとんど自分というものが分からない。」
「ローマにいると勉強をしたくなるが、ここではただ楽しく暮らしたくなる。そして我も忘れてしまう。」
「この街の美しさと状況を語るには、この言葉に限る。何度もその美しさを描写したり讃えたりしてきた。この言葉に。Vedi Napoli e poi muori!(*)」
「人が何といおうが、語ろうが、絵に描こうが、ここの景色はすべてを越えている。」
(*)「Vedi Napoli e poi muori」=ナポリを見てから死ね。
但し、ゲーテ自身が作ったものではない、伝承されてきた言葉らしい。
◇サー・ウィリアム・ハミルトン(1730-1803)
・1764〜1800年迄36年間もイギリス大使としてナポリに駐在。
・火山や地震の研究を行う一方で、遺跡の出土物を収集。コレクションの一部は1772年にブリティッシュ・ミュージアムに売却された。
◇ピエトロ・ファブリウス画《仲間をもてなすハミルトン卿》(1770)
上のハミルトン卿がもてなしている客人は(グランドツアーリストとは違うが)楽器を演奏するモーツァルト親子(レオポルトとウォルフガング)。
仕事柄、賓客に接する事が多かった事が判る。
同《ポンペイのイシス神殿の発掘》(1765)
紀元79年のヴェスヴィオ火山の噴火で地下に埋没したポンペイとエルコラーノ(ヘルクラネウム)。その発掘(1746〜)の様子を描いている。
ヴェスヴィオ火山により近いエルコラーノは20mも火山灰が積もった。ポンペイには4m。
それでも、小都市であったエルコラーノの発掘が先に終了。2.5万人の人口を抱えた商業都市ポンペイは規模が大きく、まだ発掘は終わっていない。
◇ジョヴァンニ=バッティテスタ・ピラネージ(1720-78)
《ローマの景観》《牢獄》を始めとする膨大な銅版画を制作し、アルプス以北に送り出し、北方に彼の作品が多数出回った。
フォロ・ロマーノ、コロッセオ、ナヴォナ広場等がモチーフとなった。
北からの若いグランドツーリストは、ポポロ門からローマに入り、スペイン広場に到着する。彼等を待ち受けるイタリア人の商売人、肖像画家、旅館の人達、楽器演奏家他が描かれる。背景には《バルカッチャ》の噴水や、その他見た事のある物や景観が描き込まれている。
◇ポンペオ・バトーニ画《ポンペオ・バトーニの自画像》(1773-74)/ウフィッツィ蔵
同《第5代シャフツベリー伯爵の肖像》(1761頃)
グランドツアーリストはローマ在のバトーニに肖像画を描いてもらう事が流行した。
バトーニは筆が早く、物を際立たせる技術に長けていた。
背景に、《ナポリのヘラクレス像》が小物として描き加えられている。つまり、イタリアに行った証拠としての肖像画。
依頼者が増え、バトーニの制作料は沸騰していった。
◇英国に比し、他国はイタリアとどんな関係を持っていたか?
・フランス:アカデミー・ド・フランス(ローマ)
ヨーロッパで唯一フランスだけは、国費を充てて、若いフランス人エリートをイタリアに送り、アカデミーに寄食させて育成を図った。
・ドイツ:アンティーコ・カフェ・グレコ
1760年創業のカフェ。ドイツ人というよりもドイツ語を話す人達の溜まり場になった。
スタンダール,ゲーテ,バイロン,リスト,キーツ,イプセン,アンデルセン,メンデルスゾーン等
カフェ・グレコの近くには「カーサ・ゲーテ」もある。
ゲーテがイタリアに来て初めて住んだ宿。
ティッシュバイン(1751-1829)画《カンパーニャのゲーテ》(1787)
ゲーテに同行した画家。
ゲーテはよそ行きの白い服と帽子。靴は両方とも左用!何だかヘン。
背景には古代ローマの円形墳墓やローマ水道が断片的に書かれている。
実際にあった場所でなく、あとから記憶によって構成した絵だろう。
◆クランドツアーの目的
特に英国においては、国際的教養人を育成する事。更に言えば、
・美術品,骨董品等物欲の充足
・美学的観念(芸術観)や信条の構築
・自己省察と再発見(哲学的旅行)
西洋美術史研究の立場から、主要観点を3つピックアップすると、
・古代遺産。
・自然との関わり。
・「南」と「北」(*)との美術交流。
(*)アルプス以北と以南
グランドツアーに着目する事で、3つの観点の重要性が確認できる。
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