10/11(木)の第2回聴講は、世界遺産のDVDを細切れにして見ただけなので、格別レポートはしない。
10/18(木)、第3回のテーマはギリシア。
「保存と修復」を学ぶにおいて、ギリシアの遺産の問題は大きな波紋を現代に投げかけている。
講師 杉山知太郎
先ずはギリシア文化の基本をさらう。
エーゲ海文明は地中海という交易ルートが育んだ。
・トロヤ文明(前2600~前1200)
・クレタ文明(前1900~前1400)
・ミケーネ文明(前1600~前1200)
並べると、オリエント(東方)の影響によって順次文明開化していった事が判る。
ギリシア都市国家、ポリスの誕生(前8世紀)。
丘(アクロポリス)の上に神殿(パルテノン)、その下にアゴラ(広場の根源)ができた。
パルテノン神殿はアテネの守護神アテナをまつった。
アゴラの周囲には、ストア(列柱廊)ができて市が立ち、法廷や議事堂等公共の建築物が建てられた。
市民達はここに集い、話し合いをした。
世界で初めて民主主義(直接民主制)が行われる事となる。(前508~)
労働は奴隷にさせた。彼等に参政権はなかった。
ギリシア文化
建築様式の変化
・ドーリア式
パルテノン神殿。太鼓状の大理石を積み上げて柱にした。柱の中央部が太くなっている=エンタシス。→シルクロードを通って、日本にも伝播=法隆寺の木製の柱。
簡素、荘重。
・イオニア式
ニケ神殿。柱頭に渦巻き模様。
軽快、優美。
・コリント式
ゼウス神殿。柱頭に葉型装飾。
複雑化、華麗。
彫刻様式の変化
・アルカイック様式(前650~480)
アポロン像(アテネ国立考古学博物館)。
正面性、動きなし、アルカイックスマイル。
・厳格様式、古典様式(前480~320)
ポセイドン像(同)。
多角性、運動する様を捉えている、理想の均整美。
・ヘレニズム様式(前320以降)
ラオコーン像(ヴァチカン美術館)。
ダイナミックな動き、感情表現。
こうした推移と変化は、幾度も繰り返されている。
ex.前期ルネサンス→盛期ルネサンス→マニエリスム
ヨーロッパ最古の文学の誕生
ホメロスの叙事詩『イリアス』,『オデュッセイア』。
シュリーマン(1822-90/独);『イリアス』に表わされたギリシアとトロヤの戦争は作り話だと思われてきたが、19世紀後半、シュリーマンのトロヤ遺跡(小アジア)、ミケーネ遺跡(ギリシア)の発見・発掘により、実際にあった事が立証された。
ギリシア文化はヨーロッパの諸文化の源流である。
・・・・・・
ギリシア文明は、大理石を使った彫刻や建物から「白い文明」と称されてきたが、それを覆す発見が、大英博物館であった。
その事件と真実はNHKスペシャル『知られざる大英博物館』(2012)でも取り上げられた。
大英博物館にはギリシアにまつわる遺物がたくさんあるが、あまりに量が多く、殆どは地下収納庫に眠っている。展示されているのは総量の1%に過ぎない。
その中の1つ、通称〈トロイヘッド〉にライトを当てて調べると、色別に波長が異なる事から、その瞳が青色に塗られていたのが判った。
その青色は、古代エジプトの壁画に使われていた青色(エジプシャンブルー)と同じものであった。
つまり、ギリシア文明はエジプト文明の影響下で育まれたという事がここから判る。
瞳だけでなく、元は全身に極彩色の塗色がなされていた事が判った彫刻が多々発見され、CGで再現されるようになった。
彫刻だけでなく、建築物でも同様の調査が行われたが、パルテノン神殿等も白亜でなく、様々な色が使用されていた事が判った。
同じ青色はペルシアからも発見されている(ペルシャンブルー)。
ギリシア文明の誕生にはアフリカやアジアの文明が寄与していたのである。
ギリシア文明は2500年前、エジプトやペルシアの文明は5000年前であるから、こうした文明の時間を追った波及・生成は当然と言えば当然である。
しかし、当然の事と思わなかった人達がいた。
「エルギン・マーブル」という呼称がある。
大英博物館にあるパルテノン神殿の多数の彫刻は、エルギン伯爵トマス・ブルースが、ギリシアからイギリスに移送した。
その経緯を見てみる。
1687年、ローマ法王インノケンティウス11世が提唱した「神聖同盟」に参加したヴェネツィア共和国はオスマントルコと戦った。
当時、ギリシアはオスマン帝国の支配下にあった。
オスマントルコは、パルテノン宮殿に女性や子供を避難させると伴に、その中に弾薬庫を設置した。
パルテノン神殿が攻撃される事はないだろうとの見通しからである。
が、ヴェネツィア共和国軍はこれを砲撃した。弾薬庫の爆発によりパルテノン神殿は大きく破壊された。特に南側の被害が甚大で、彫刻類も地面に落ちた。一部は組み立て直されたが、そのまま放置されたものも多かった。
18世紀になると停戦状態となり、またポンペイ遺跡の発掘もあり、ヨーロッパ人のギリシア・ローマ古代文化に対する憧れが強くなった。
1781年には、イギリス人考古学者がアテネに入り、パルテノン神殿の実測資料を作成した。
在コンスタンティノープル大使エルギン伯トマス・ブルースは、アクロポリス遺跡群の型取りと図面化、遺跡の中に近年建てられた住居等の建築物を撤去する事、そして持ち出す事を認めるスルタンの勅令を得た。(*)
エルギン伯はこれを拡大解釈し、前の戦争で落下していた遺物を拾い集め、遺跡の壁から彫刻類を切り剥がしさえして、イギリスに輸送した。
これらの遺物や彫刻類は、1816年来、大英博物館に収められており、「エルギン・マーブル」と呼ばれるようになった。
19世紀前半に高揚したロマン主義にはエキゾチズムへの傾倒という側面があり、「エルギン・マーブル」はイギリスで人気を呼んだが、反面、詩人バイロン卿のようにエルギン伯の行為を「略奪」として激しく非難する声も上がった。
1970年代からギリシアはイギリスに対して「エルギン・マーブル」の返還を要求しているが、いまだ実現には至っていない。
(*)ナポレオン軍のエジプト遠征(1798-1801)に対して、オスマントルコとイギリスは同盟を組み、これに対抗したという実績があって、イギリスとオスマントルコは良好な関係にあった。オスマントルコのスルタン・セリム3世は、エルギン伯の申し出に対して、色よい返事をせざるを得なかったという背景があった。
ドイツの美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717-68)は、極彩色が使用されている事を知りながら、「古代ギリシアは純白の文化」と主張し、ギリシア美術理想論を展開した。
この主張は、のちの帝国主義の時代に、白人優位思想につながっていく。
ヨーロッパの文化の源流はギリシアにあり、ギリシアは「白の文化」、白人としての自分達の祖先に相応しい、そう考えるようになったのである。
折りしも、大英帝国ではヴィクトリア女王が純白のウェディングドレスで結婚式を挙げる(1840)等、白色に対するイメージは急騰した。ウェディングドレスは白というファッションは欧米にまたたく間に拡がった。
一部の白人優位思想家はギリシア彫刻が極彩色に塗られていた事は認めなかった。それを認めれば、ギリシア文明がアフリカ・アジアの古代文明の影響を受けた下流文明であり、ひいては白人優位思想は根本的に誤りであると指摘されかねない。
こうした思想は、20世紀に入ると、ヒトラーのアーリア人種優位説やユダヤ人劣等民族説、優生思想につながっていった。
1930年、大英博物館のスポンサーで美術収集家のデュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーンが同館職員等に命じ、ギリシア彫刻洗浄を行った。ギリシア彫刻は白くあらねばならないという間違った使命感が彼を動かしたのである。
「もっと白く(get it whiter)」の掛け声の下、洗浄によってギリシア彫刻は表面が削り取られ、文化財は大きな痛手を蒙った。
帝国主義の盛期である。
アフリカ・アジアを植民地にするヨーロッパの列強は、他国支配の理由が必要だった。
そこで、白人優位説の正しさを、ヨーロッパの源流としてのギリシア文明理想論に求めた。
勝れている白人は、劣っている民族を支配し、教育を施し、経済援助によって文化程度を引き上げてやらねばならない、と。
こうした帝国主義の根幹思想は、一気に欧米に拡大した。
1938年、「エルギン・マーブル」洗浄の証拠類が、大英博物館の地下から見つかった。
これはBBCによって報じられ、一大スキャンダルとなった。
イデオロギーによって、遺産を保護するはずの博物館でも、収蔵品に間違った手が加えられる事になったいい一例である。
現代の我々は、これから多くを学ばねばならない。
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