『ディア・ハンター』
鉄工所での炎や延々と続く結婚式エトセトラ、エンドまで儀式というもの表され続けられるが、そこらへんはチミノ、コッポラと重なり合う。チミノは同時代人であり先に成功したコッポラ、そしてベルトルッチのようになりたかったのかな。そしてチミノとコッポラはヴィスコンティに対する憧れをともに持っているのかな、と、この作品を観ながら思うのである。
チミノは常にアメリカに呑み込まれる者たちを描いているように思える。この作品で表されるアメリカはヴェトナム戦争だけをいうのではなく、その戦争を生み出した儀式社会のアメリカ。常にそこに住む民族性を強く表しながら、それと対比させながら儀式社会であるアメリカを浮き彫りにする。アイデンティティを表しながらも、78年のこの作品は、日本でいうアメリカンニューシネマのリアルさからは離れ、ヴェトナムもイメージとしてのエキゾティズムであり、スターウォーズの後であり、ポールヴァーホーベンやエイドリアンラインやブレードランナーが暴れまわるエイティーズに近い感覚のものであり、クラシック西部劇が“インディアン”を表していた時代のセンスにむしろ戻されているが、虚構性がアメリカンニューシネマのリアルさと溶け合いながら、視覚的におもしろみあるアメリカを描き出している。
その虚像性は、アメリカという聖なる供儀性を上手く表し出す。山での鹿狩りとロシアンルーレット、或いは、恐怖とマネー、それらのコントラストと重なり合いは聖性を時空間に奇異あるものとして浮かび上がらせるのだ。そうしたセンスがこの作品を、ただのコッポラやベルトルッチ、或いはヴィスコンティのモノマネだけにはさせない。
チミノはアクションの撮り方、コンティニュイティ、カット割り、アングル、上手いなと彼の作品を続けて観ると、そう思えてくる。この作品では、トラックの横を通り過ぎる時のそれである。またシチュエーションの置き方も、確信犯的に的確にしていておもしろい。コッポラが『雨のなかの女』でしたような即興性のものとは違う。この作品では、トイレに行ったジョージ・ズンザを悪戯に置いてきぼりにするところのロングショット。CM制作で培ってきた力が分かるチミノである。
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