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2008年06月21日00:32

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米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

米原万里については、今年3/13の日記で、その講演録『愛の法則』(集英社新書)に少ばかり触れた。
→http://mixi.jp/view_diary.pl?id=743086790&owner_id=3341406

今回、ノンフィクション集『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)を読んだ。
中に収められているのは、『リッツァの夢見た青空』そして『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』『白い都のヤスミンカ』の3題である。

リッツァ,アーニャ,ヤスミンカは、皆彼女の9歳から14歳の少女時代の、同年代友人女性である。
それぞれ、後に判った事情もあるけれども、ギリシア人,ユダヤ系ルーマニア人,ボスニア・ムスリムの旧ユーゴスラヴィア人。何れも米原がチェコ、プラハのソヴィエト学校に通っていた時代(1960-1964)に、親の共産主義との関わりで、同校で学んでいた。
出自がそれぞれ違うという事は、当然、異なる歴史を背負ってきたという事だ。
歴史の稀有な悪戯の糸に引かれて、彼女達は偶然そこで多感な少女時代を送り、そして、その後も民族の波に煽られて世界の各地に散って行ったのである。

米原の父は第2次大戦前、共産党が非合法だった時代に、理想に燃えて地下活動を行い、戦後は、国際的な共産主義理論情報誌『平和と社会主義の諸問題』の日本代表編集員として、同本部のあったチェコスロバキアのプラハに、日本共産党から派遣され、家族を連れて赴任した。
前述の3人も、似たような立場でプラハに来ていた。
ソヴィエト学校での授業は全てロシア語で行われた。米原のロシア語への通暁はこの時に遡る。

この書では、この時代の友人との付き合いと、その後何10年かを経た後の奇跡的な邂逅を通して、我々は、東欧史を生々しく、血の通ったものとして理解する事ができる。
もともとfar eastの日本人は東欧についての情報が極めて少ないし、入ってくるものもアメリカのサングラスを通過したものばかり、日本人の東欧音痴は、戦後60年を越えた今でも、基本的には全く変わっていない。
そんな我々がこれを読むと、彼女の屈託のないヒューマニズムや豪胆でいて繊細な文章力、シモネタも含めた旺盛なサービス精神によって、歴史書の中の数行の事件が、色鮮やかに、体温を持った出来事として私達の心に根を下ろす。彼女に歴史解説の意図はないと思うが、結果として、我々は、人の顔の見える歴史を学ぶ事になるのである。

最近、良質な東欧関連の映画を観た。『サラエボの花』、そして『君の涙ドナウに流れ』である。前者はユーゴスラヴィア解体後、1992-95年のサラエボ紛争について、後者は1956年の”ハンガリー動乱(または革命)”について描かれていた。これでも、日本人の東欧音痴をいやという程、私は認識させられた。

米原がプラハのソヴィエト学校に通っていた時代は、この後者の事件の、硝煙の匂いも消えぬ時である。そして1964年に到って米原は日本に帰国。
後年、米原がいても立ってもいられぬように、居所も知れぬ旧い友人達に会いに極東の地から飛んで行くのは、1990年代。”プラハの春”とソ連軍の侵攻事件(1968)後、ソヴィエト学校は疾うに閉鎖。ルーマニアではチャウシェスク体制が1989年に崩れ、そして終にはソ連が1991年に崩壊するに到る。その後も、前述のサラエボ紛争等、東欧に煙は消えず、平和は訪れていない。そんな危険のさ中である。
彼女が3人を探して彷徨う様は、まるでサスペンス小説を読むようにスリルさえある。つきとめた彼女達の居住地は、それぞれ独ナウハイム,英ロンドン,セルビア・ベオグラードとバラバラ。

友人達を追う事は、彼女達の出自に迫る事を避ける訳にいかず、米原の視野は、主義は勿論、民族を越え、世代を越えて、拡がっていく。そこに、新たな米原万里という度量の大きな人間の立つ地場が生まれていったのだろう。


文庫の原典とした角川書店の単行本の初版発行は2001年6月。
 
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