先日、「引佐散策」の日記の中で北岡大塚古墳について書いた。
参)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1974673205&owner_id=3341406
同古墳の基礎的部分をあれこれWeb上で調べてみると、そのサイズの表記が、現地の説明板と違っているので困惑した。
以下、説明板写真。
以下、浜松市役所のサイト。
一個人のブログならまだしも、浜松市役所のサイトと、現地にある浜松市教育委員会作成の説明板が違うのはまずい。
他に全国のデータを集積した「古墳マップ」なるサイトを見てみると、やはりサイズは浜松市役所のそれと同じである。
そこで、正しいデータを求め、引佐図書館から学術的な資料を借りてきた。
『引佐町の遺跡�� 北岡大塚古墳(第2次調査報告書)』
執筆 辰巳和弘,日高慎
発行 1996(平成8)年、引佐町教育委員会(*1)
(*1)浜松市とその周辺は2005(平成17)年に合併されたため、現在は、教育委員会も浜松市に統合されている。
同書から、基本的な部分を切り貼りしてスクラップを作ってみた。
それを紹介すると、以下のようになる。
・・・
引佐町の井伊谷には古墳が多数ある。
その位置関係についての記述部分。
地図に印をすると、こうなる。
下半分はその拡大図。
北岡大塚古墳の等高測量図。
地図上の数値が逆さまになっているが、北方向を固定するとこうなってしまう。悪しからず。
古墳各部の計測値。(*2)
北岡大塚古墳復元模式図。
形状の特徴。
この古墳は北半分と南半分が対称になっていないのが面白い。
この書の総まとめ部分。
ここに、第2次調査によって割り出した築造年代が書かれている。
「4世紀中葉頃」、即ち「古墳時代前期中葉から後葉にかかる時期」。
更に「北大塚古墳は都田川流域のみならず天竜川以西の西遠江地域において最初に築造された古墳である事が確実」と書き添えてある。
・・・
さて、当書のタイトルから分かるように、これは第2次調査に基づいて書かれている。
「第2次」があるのだから、勿論第1次調査があったのである。
関連データを時系列で並べるとと、下のようになる。
1979(昭和54)年2/26 北岡大塚古墳発見。
1980(昭和55)年8月 同古墳第1次測量調査実施。
1981(昭和56)年3月 『引佐町の古墳文化��(北岡大塚古墳測量調査報告書)』発行。
第1次調査の成果が、上の書にまとめられた。つまり、同古墳が前方後方墳の墳丘を持つ事、県下では4例目という珍しいものである事。
そして、サイズは「全長46.5m、後方部の幅26.5m、高さ3.6m、前方部の幅20.0m、高さ2.0m」と記された。
ここで言っている「全長」とは、正確を期せば「墳丘長」の事だろう。「後方部の幅」とは「後方部長」、「前方部の幅」とは「前方部長」であろう。
浜松市役所や「古墳マップ」のサイトにある「全長46.5m、高さ3.6m」との表記は、これに依拠したに違いない。
「幅」と「長」の表記は混乱しているように見えたため、省略したのだろう。
続いて、
1994(平成6)年8月 同古墳第2次調査実施。
1996(平成8)年3/25 前掲『引佐町の遺跡�� 北岡大塚古墳(第2次調査報告書)』発行。
現地説明板は、文面からして、1994〜96年に製作されたであろう事が推測される。
計測データも第2次調査を反映している。
この第2次調査は13本のトレンチ掘削による調査となった。
実は、古墳のサイズを求めるのはなかなか難しい。掘削により、墳丘(や周溝)が何処から立ち上がっているかを確認しない事には正確なデータは決定できない。経年で劣化した外見だけでは不充分である。
第1次調査のデータは「推測値」というべきものであった筈だ。
が、それが一人歩きし、第2次調査結果によってメンテナンスされなかったため、今回の指摘のような事になったのである。
繰り返しになるが、北岡大塚古墳の正式サイズは、(*2)「古墳各部の計測値」を再確認頂きたい。
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