(続き)
東京国立博物館の運慶展のあとは、地下鉄銀座線で上野から浅草に出た。
今年5.14、トーハクで「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」展を観た帰りに果たせなかった蔦重の墓に詣でるためだ。(前回は代わりに平賀源内の墓所を訪れた。)
〈参〉レポート「特別展 蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児� �
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蔦重の墓のある正法寺(しょうぼうじ)は、地下鉄浅草駅から北へ1.2km、歩いて15分強、隅田川から猪牙船(ちょきぶね)で吉原へ行くのに使った水路(今は埋められて山谷堀公園になっている)の近くにある。
8(?)階建ての鉄筋コンクリートビルで、3階以上は室内墓地となっている。
ちなみに、源内の墓所は更に北へ1km強の所にある。
正法寺は1582(天正10)年に開山された日蓮宗の寺院。
本尊は毘沙門天で、今回の上京初日に訪れた神楽坂の善國寺含め「江戸三大毘沙門天」の一つとされている。
幾多の火災、関東大震災、東京大空襲により焼失、1994(平成6)年に現在のビルに建て替えられた。
これら災害によって多くの墓や碑や史料は灰塵に帰し、遺骨も飛散したが、その後、蔦重のそれは、墓のスケッチを含む史料を基に再建された。
遺骨は寺の手でかき集められ、無論誰の骨か仕分けできる訳もなく、萬霊塔に収められる事となった。
ビルの入り口を入ってインフォメーション奥の左側から狭い庭へ出られる。
目の前左側に蔦屋重三郎にまつわる碑と墓、そして前掲の萬霊塔がある。この塔の下には蔦重のそれも入っているかもしれない。
右奥にあるのが喜多川家代々の墓石で、真ん中手前のものは顕彰碑または供養碑と言えばいいだろう。
墓石には14の法号が刻み込まれている。
上の段、右より最初の2人「實翁浄如信士 明和四年九月二十九日」と「紅屋妙葉信女 明和二年八月二十日」は重三郎が養子に入った喜多川家の養父母。
同じく、右から5番目「幽玄院義山日盛信士 寛政九年五月六日」となっているのが蔦重本人。
同じ3番目「桃岸仙渓居士 天明六年二月九日」が実父 丸山重助、同6番目(蔦重の左隣)「○○院妙松日秀信女 寛政四年十月二十六日」が実母 広瀬津与(つよ)と推測されている。この2人は重三郎が7歳(数え)頃離婚している。
下段に行くと、右端「錬心院妙貞日義信女 文化八年十月十八日」が妻 貞(てい)。他に蔦重二代目(番頭勇助),三代目,四代目 他。
但し諸説があるので留意されたい。
この墓石は、元は本堂裏手に、喜多川家代々ものと重三郎個人のものと2つあったのだが、史料を基に1つにまとめた由。
台座には「耕書堂」の移転先日本橋町名「通油町」と蔦屋紋も彫り込まれている。
真ん中手前の石には、石川雅望(まさもち)狂歌号 宿屋飯盛と、太田南畝 狂歌号 四方赤良による「喜多川柯理墓碣(*)銘」と「実母顕彰の碑文」が彫り込まれているが、これも元は別々の石だった。
(*)墓碣(ぼけつ)とは円柱型の碑を意味する。
それぞれに書かれている事柄を、以下、現代語に意訳してみようと思う。
・「喜多川柯理墓碣銘」
…喜多川柯理(からまる)の「喜多川」は、幼くして入った養家の姓。生家は「丸山」だった。のち蔦屋重三郎と称す。「蔦屋」は喜多川家の店の屋号。
重三郎の人となりは、志、人格、才知優れ、小事を気にせず、人には信頼をもって接した。
吉原大門の外に書店「耕書堂」を開き、のちに日本橋通油町に移転。
生父母を迎えて篤く養ったが、相次いで亡くなった。
重三郎は吉原の廓産業を盛んにし、自らも財をなした。
その巧思妙算は他の及ぶところなく、「耕書堂」を大店にした。
1796(寛政8)年秋、病(脚気と言われる)を得て、危篤に。翌年夏にはこう言った「私は今日昼時には死ぬよ」。
身の回りの始末をし、妻と別れの言葉を交わしたが、昼に至り笑って言った「自分の人生は終わった筈なんだが、拍子木がまだならない、随分遅い」。
言い終わったあとはもはや言葉を発する事なく、夕刻になって亡くなった。数えで48歳、正法寺に葬られた。
自分(石川雅望と太田南畝)は離れた所にいて訃報を聞き、心底驚いた。悲痛の極みである。
君(重三郎)と出会って得られた恩恵と伴に僅かな余生を過ごす事にしようと思う。ああ命の儚さよ。」…
蔦重は太田南畝らに狂歌を学び本も出した。狂歌の号は「蔦唐丸(つたのからまる)」だった。
「柯理」と字さえ異なれ、実父母がつけてくれた名に愛着を持ち続けたのだろうと想像する。
・「実母顕彰の碑文」
…江戸生まれの広瀬津与は、尾張の丸山重助と結婚したが、柯理を生んですぐ離婚。
柯理は喜多川家の養子となり、重三郎と称して書店を開き大いに繁盛。
津与は1792(寛政4)年に病死、正法寺に葬られた。
その後重三郎は南畝に言った、「私は7歳で母と別れ寂しい思いをしたが、のち再会する事ができて、今日の自分がある。できたら墓に何か言葉を捧げ、労苦に報いてやりたい」。
南畝はそれに応じて言った、「君は寛政の改革の弾圧で身上半減の罰を受け、牢屋にも入った。それでも逆狂を乗り越えて成功した。そんな人はなかなかいない。子は母の遺した教えを大切にし、努力し続ける事が何より大事。君の成功は彼女のおかげだ」。…
これを読むに、蔦重の生みの母への思いは並々ならぬものがあったようだ。
正法寺は、彼に関係する資料を幾種類も揃えて、墓を大事にしているようだった。
私が訪れている時、他にも2組の女性が蔦重の墓参りにやってきた。
今回、秋の上京の最後に、5月に果たせなかった正法寺を訪ねる事ができて幸いだった。
行きと道を変えて広い通りを浅草駅に向かうと、意外な向きに、突然巨大なスカイツリーが現れた。
右手には小さな半月がうっすらと懸かっているのに気づいた。
目的は全てこなし、東京駅に戻った。
グランスタで夕食に回転寿司、娘達に土産物を買い、19:30のひかりに乗って浜松へと帰途に就いた。
家に着いたのは22:00過ぎとなった。
最終日は17,300歩だった。3日間、よく歩いた。
同じ東京と言っても、今回は随分性格の異なるところをあちこち巡り、様々な実りを得て、レポートはいつもより少々長いものになった。
最後迄お付き合い下さった方々にお礼を申し上げます。
(お終い)
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