第1日目5/14(水)、浜松10:17発のひかりで上京。
正午過ぎに東京国立博物館に入り、平成館で開催中の特別展「蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児」を観る。
充実した内容で、展示点数も多かったため、レポートは長くなりそうだ。
・会期 4/22〜6/15
まず蔦重こと蔦屋重三郎の出生について可能な限り事実を確認しておきたい。
蔦重は1750(寛延3)年1/7、吉原で生を受けた。
ちなみに1750年は、ヨーロッパではバッハが亡くなった年である。6年後にはモーツァルトが生まれる。グローバルな歴史イメージが湧いてくる。
東浅草 正法寺に再建されている同時代の狂歌師 石川雅望(1757-1830)及び戯作者 太田南畝(蜀山人/1749-1823)による蔦重の墓碣文から両親は尾陽(びよう)(*)出身の丸山重助と江戸出身の広瀬津与(つよ)だという事が分かっている。
つけられた本名は丸山柯理(からまる)、通称重三郎。
写真は正法寺ホームページより。
5月は蔦重の亡くなった月でもあり、トーハクのあとこの正法寺に寄ろうと思っていたのだが、閉門時間に間に合わず果たせなかった。
(*)「尾陽」は現 名古屋市昭和区御器所(ごきそ)、同名の神社がある。家康の第9子、尾張藩初代徳川義直を「尾陽公」と呼び、この神社で祀っている。
吉原の創業者 庄司甚右衛門の子孫 庄司勝富(1668-1745)が著した『北女閭起原』(ほくじょりょきげん)によると、遊郭が始まった頃はいなかったが、いつの事か尾張出身者が増え始め、「吉原過半数尾州人となり、当時は町人までも皆本国尾州なり」とされ、尾張国知多郡には吉原の寄進で建立された念仏堂がある、と。
太平洋戦争前、愛知県の郷土史家 沢田次夫が調査したところによると『吉原大江図』にある18軒の揚屋のうち7軒が尾張出身者の経営だとの事だ。
両親が1756(宝暦6)年頃(蔦重数え7歳頃)離別したため、吉原の「喜多川」という商家の養子となる。喜多川家の経営する引手茶屋の屋号が「蔦屋」である。
本レポートでは年齢はすべて数えで表記する。
生みの親については殆ど情報がないが、同じ墓文に、日本橋通油町に店舗兼住居を移した1783(天明3)年頃「父母を迎えて奉養す」とある。(単に「父母」とあるが、先に書いたように既に2人は離別している。離別の原因も分かっていないが、離別状態のまま父母を自分の家に呼び寄せたのだろうか? 詳細は不明。)
その後、父母は相次いで亡くなった事、母の病没は1792(寛政4)年だった事、正法寺に葬った事が添えられている。父については明記されていない。
父が重助、柯理が重三郎とすると、名前からして他に兄弟がいたとも想像されるが、これも分かっていない。
また養父母についても正確な名前含め、記録は残っていない。
さて、肉身から離れ、次に、蔦重の出版業におけるエポックメイクな仕事と人間関係を暦年で追いかけてみよう。
1753(宝暦3)年頃、歌麿誕生とされる。出生については不明な点が多い。
1765(明和2)年、この頃、鈴木晴信(1725?-70)らによって多色刷り版画「錦絵」誕生。
1772(明和9/安永元)年、23歳、吉原大門前五十間道の引手茶屋「蔦屋」(義兄 蔦屋次郎兵衛の店)の軒先を借りて仕事を始める。当初は貸本業。
この年、田沼意次(1719-88)老中兼務。
1774(安永3)年、25歳、蔦重、老舗版元 鱗形屋孫兵衛の独占的版『吉原細見』(吉原ガイドブック/年2回発行)の卸や小売を請負う。
細見の末尾に蔦屋重三郎の名が載っている。彼が関わった最も早い出版活動である。
この序文「細見嗚呼御江戸」を「福内鬼外」名で平賀源内(1728-80)が書いている。この時源内は本草学者、蘭学者、戯作者として既に江戸で広く知られていた。確たる証拠はないが、吉原生まれで遊客らと深い交流があった蔦重が、源内と何らかの接点を持っていた可能性はある。
同年7月、版元として初の出版物『一目千本』刊。花に譬えた遊女の評判記。
但し、遊女は網羅しておらず「吉原細見」のような機能はなく、非売品で、特定の遊女や得意客、遊女屋などの出資(「入銀」と言う)により制作されたようだ。
絵は当代随一の人気絵師 北尾重政(1739-1820)。
早くも吉原で築いた人脈が活かされた。
1775(安永4)年、26歳、初の自主出版、吉原細見『籬の花』刊。
「籬」(まがき)とは、店先に細木で組んだ垣で、その間から「花」つまり遊女が見える。
鱗形屋版よりサイズを大きくしてページ数を減らした。通りの左右に並ぶ店が、ページの上下にレイアウトされ、実際に手にもって町歩きするのに良さそう。
最初のページに、大門と、その前にS字に曲がった五十間道が描かれている。
通りの下側、大門の手前5軒目に「つたや次ろへえ」とある。この時点では、蔦重が義兄の店を間借りして商売をしていた事が分かる。
左ページ、大門を入り、通りの上下に書かれている小さな文字は遊女屋の店名。
最後の奥付けには「新吉原大門口 板元 蔦屋重三郎」とある。
同年、《雛形若菜の初模様》を老舗版元 西村屋与八と共同出版。絵は礒田湖龍斎(1735-90)。
10年前後の歳月で140枚もの絵が出された人気シリーズ。
蔦重は専ら遊女らの情報提供者としての限定的役割だったらしく、途中で彼の版元印(*)は見られなくなり、西村屋単独版権の出版となってしまう。
(*)上図では真ん中の禿の足元にある丸印がそれ。「耕書堂」と読める。随分早くからこの店名を使っていた事が分かる。
1776(安永5)年、27歳、『青楼美人合姿鏡』を版元 山崎金兵衛と共同出版。絵師は北尾重政と勝川春章(1726-43)。
妓楼と遊女の名入りで、四季の彼女らの日常が描かれた絵本。最後には遊女ら164人が詠んだ俳句も載っている。吉原に詳しい蔦重の力が発揮された。一流浮世絵師との関係が拡大されていった。
上図冒頭「松葉屋」の項には当代を代表する花魁 五代目「瀬可ハ」(瀬川)の絵と名がある。瀬川はこの書が出る前年、既に高利貸し鳥山検校に身請けされていたと伝えられる。人の異動と出版の間にはタイムラグがあったろう。
同年、平賀源内、長崎遊学時に入手した「エレキテル」の修理・復元に成功。治療や見世物として話題になる。
1777(安永6)年、28歳、独立し、五十間道に自分の店「耕書堂」を構える。
朋誠堂喜三二(1735-1813)作『娼妃地理記』刊。蔦重最初期の洒落本。
蔦重の戯作界での出版活動はこれに始まる。今後喜三二との仕事が続く。
同年、新展開として、浄瑠璃 富本節の正本(台本)、稽古本を出版。
1778(安永7)年、29歳、富本節正本の続きで北尾政演(まさのぶ)が絵を担当する。
北尾政演は山東京伝(1761-1816)の浮世絵師名。京伝との関係深化の始まり。
1780(安永9)年、31歳、黄表紙、往来物(初等教育の教科書)を出版する。
1781(安永10/天明元)年、32歳、朋誠堂喜三二の黄表紙『見徳一炊夢』刊。
金持ちの息子から借りた枕で見た夢が漫画の吹き出しのように描かれている。
同年、太田南畝(1749-1823)の評判記『菊寿草』で『見徳一炊夢』が最上位に選ばれ、蔦重の出版活動における大きな契機となった。世に広く蔦重の名が知られるきっかけに。
(続く)
ログインしてコメントを確認・投稿する