1/17(土)、愛知県芸術劇場コンサートホールで名古屋フィル第541回定期演奏会を聴いた事は昨日,一昨日とレポートしたが、実はその前に同芸術文化センターの10階にある愛知県美術館で「ゴッホ展〜家族がつないだ画家の夢」を観た。
・会期 1.3〜3.23
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)は27歳の時に画家になる決心をし、37歳で自死する迄の10年間に2,000点もの絵を描いたが、生前に売れたのは《赤い葡萄畑》(1888)たった1枚だった。
〈参〉「文芸大聴講<西洋美術史�供筬�〜ポスト印象派(セザンヌ,ゴッホ,ゴーガン)」(2012.1.12記)
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1813232030&owner_id=3341406
◆本展の趣旨
こんなゴッホの作品が、後世、どうして人気を得たのか、それには彼の3人の家族の献身的な努力があったからだ。
それを明らかにするため、本展ではオランダ・アムステルダムのファン・ゴッホ美術館所蔵約80点(*)の絵画,素描,資料を展示・解説している。
(*)ゴッホの本画30点、同時代の画家達の作品、浮世絵、日本初公開となる
彼の手紙4通、を含む。
ファン・ゴッホ美術館のおおもとは、ゴッホの3人の家族のコレクションを受け継ぐ事からスタートした。
◆ゴッホ本人と3人の家族、 及び一部展示作品の時代と拠点等概要
・フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)
19歳頃の写真とされている。
[オランダ時代]
1853年、オランダ南部フロート・ズンデルトで生まれる。
1869年、画商グーピル商会ハーグ支店に勤める。
1872年、現存するテオ宛最初の手紙が書かれた。
1876年、グーピル商会解雇。
1880年、27歳、画家となる決心をする。ブリュッセルで美術の勉強開始。
〈傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛の手紙〉(1882.9.23)
ラッパルトはブリュッセルで出会った先輩画家。2人は手紙で、様々な美術の話題を語り合った。フィンセントは、今、救貧院の男を制作中として、そのスケッチを便箋に描いた。
本展で展示されたラッパルト宛ての4通の手紙は長らく所在不明となっていたが、2006年に個人コレクションの中から発見された。
質の悪い紙とインクのせいで、展示される事はめったになく、今回は貴重な出展となった。
《女性の顔》(1885.4)
画業始め頃の油彩画。フィンセントは農民を描く画家になる事を目指した。
暗い色調で分かりにくいが、補色の効果が試されている。色彩理論は本から学んだ。
[パリ時代]
1886年2/28頃、テオを頼ってバリに移り住む。
ベルナールやトゥールーズ=ロートレックと会う。
自分の表現が時代遅れである事に気づき、新たな筆遣いと色彩表現を取り入れ、独自の様式を考えだしていく。
《モンマルトル:風車と菜園》(1887.3~4)
フィンセントはパリに住んでも、長閑なモチーフを好み、喧騒を感じさせないモンマルトルを幾度も描いた。
春先、緑はまだ少なく、木々もまだ裸。畑では2人が農作業をしている。
奥には風車が見え、展望台からはパリを一望できる。
明るい色調と軽やかな点描技法はパリ時代に身につけた。
1887年11~12月、ゴーガンと出会う。
この頃描かれた《画家としての自画像》)(1887.12~88.2)については、テオの妻ヨーの項で関連事項を記述する。
(続く)
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