1/11(水)、静岡文化芸術大学の社会人聴講、2012年に入って初めての<西洋美術史��>、後期の第12回目。
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昔は”後期印象派”等という日本語としておかしな呼び方をしていた。まるで前期印象派と後期印象派があるみたいだ。が、彼等を印象派の括りに入れてはならない。
印象派の次にやってきた潮流という意味で、最近では”印象派以後”とか”ポスト印象派”と呼ぶ事になった。
先に少々昨年の整理。
印象派が出てきた訳として、写真の普及は大きな要因だった。
目に見える物を実態通り描くのは、絵より写真の方が長けている。
写真が普及する前は、絵画は形(フォーム)が最も大事だった。形をあるがままに描く。
しかし、それは、写真がもっと的確に素早くやってくれる。
変革を求める画家達(当時の前衛画家達)は、絵画の役割を、動きや色や光の表現にシフトした。形(フォーム)より、心象(イメージ)に重きを置くようになった。見えるものから見えないものへの転換、という言い方もできるだろう。
19世紀後半、産業革命の進展は社会を大きく変え、世界各国の文化交流も進んだ。社会の変化は人間の意識にも変化を生む。芸術が時代の産物であるからは、芸術も変化の速度を上げ、様式は短い時間の中で多様化していく。
とは言っても、外的な変化の影響を受けない(受けたくない)人々もいる。芸術においては、アカデミスムがそれで、伝統から抜け出る事をせず、神話画,宗教画,歴史画を描き続けた。彼等にとって重要なのは、相変わらず形(フォーム)である。
実はこちらがまだ時代の主流であって、印象派等変革を求めた人達は、前衛の少数派であった事を忘れてはいけない。
・ポール・セザンヌ(1839-1906)
ポスト印象派はこの人から。更に言うなら、近代絵画がマネによって始まったのに対し、セザンヌは現代絵画の生みの親と言われる。
ピサロの紹介で第1回印象派展に出品としているから印象派に含まれる、という主張も100%間違いではないが。
何故現代絵画の父と呼ばれるか?
セザンヌは、物をもっと立体的に捉えられないかという事を思考した。
印象派は色や光等、印象の重視から形が不明瞭になっていくが、セザンヌは骨格を重視、物をもっと立体的に表現しようとして、結果的に伝統的な形を壊していく。アカデミスムの拠り処である遠近法を壊していく。
ここから抽象化は更に進み、後年、ピカソはセザンヌから多くのものを学ぶ。セザンヌは時代の先取りをしたのであって、ここに彼が現代絵画の父と呼ばれる由縁がある。
モネから抽象絵画はが生まれ、セザンヌからキュビスム、または幾何学的抽象画が誕生したと言える。
生前の彼は、この新しさの為、世の中から殆ど認められず、孤独な生涯を送った。
《首吊りの家》(1872-73)…明るい色彩と筆触分割。これを第1回印象派展に出した。
《大きな松と赤土》(1885-87)…エクス=アン=プロヴァンスにて制作。キュビスムの予兆を見る。
《箪笥のある静物》(同)…物を捉える視線を動かしてみる。結果的に、画一的な遠近法は壊される事となる。例えばテーブルの板の前のラインは、もう繋がっているようには見えない。(→写真1)
《ジャス・ド・ブッファンのマロニエ》(1887-88)…細かく精緻な描写には興味を持たず、物の構造や骨格の大掴みな表現を進めた。
《赤いチョッキの少年》(1890-95)…《箪笥のある静物》と同様の展開をしたら、人体も解剖学的には不自然なものとなる。右手上腕の異様な長さ、耳の大きさ、等々。この絵はチューリヒ美術館から盗まれ、今もそのまま発見されていない。
サント・ヴィクトワール山をセザンヌは繰り返し描き、絵画的実験を重ねていく。
最後の《サント・ヴィクトワール山》(1904-06)…晩年の代表作。同じ山を3方向から見、それを1枚の絵に結合させようとした。実物の山とは違った景色がカンヴァスの上に生まれる事となった。
・ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)
父の後を継ぎ、プロテスタントの伝道師になろうとしたが、27歳で画家に転向。その後、10年間の集中的な画業(オランダ→パリ→南仏アルル)、そして自殺。
生きている間は全くの無名で終え、絵はたった1枚しか売れなかった。彼程同時代に影響を与えなかった画家も珍しい。
燃え上がるようなタッチの独自世界は、後の表現主義を予告しているようでもある。
《開かれた聖書のある静物》(1885)…父の死を契機に描いた。消えたロウソクは、死をイメージ。強い宗教心の顕れ。
《タンギー爺さん》2様(1887 / 1887-88)…ゴッホは画材屋タンギーに繰り返し絵の具の提供等を受け、世話になった。そのお礼のつもりで描いた肖像画。バックには浮世絵を配した。
《雨中の橋》《亀戸梅屋敷》(1887)…歌川広重の浮世絵の模写。ジャポニスムの強い影響を受けた。日本人になりたいとさえ発言した。
《ひまわり》(1888)…南仏アルルでゴーガンを迎える意図から、何枚もヒマワリを描いた。実際に何枚ヒマワリを描いたかは不明。世話になった人に謝礼としてヒマワリの絵を押しつけたというエピソードもあるくらい。
日本にもヒマワリの絵は存在したのだが焼失した、という記録が残されている。
現在損保ジャパン東郷青児美術館にあるのは、アメリカの1個人が持っていたものを購入。同家の子供が、厚塗りの絵の具を剥がしてしまった、修復し切れない疵跡がある由。
《赤い葡萄畑》(1888)…生涯で売れたたった1枚の絵がこれ。(→写真2)
《夜のカフェ・テラス》(1888)…ゴーガンと決別した後、夜、現場で制作。星の光が大きく輝いて描かれ、ゴッホが強い近視だった事を伺わせる。今このカフェは、”カフェ・ド・ヴァン・ゴッホ”という名に変わり、観光の名所となっている。
《夜のカフェ》(1888)…そのカフェの屋内を描いたもの。
《自画像》《星月夜》(1889)…アルルを去り、サン・レミの精神病療養所で描いた。
《ドービニーの庭》(1890)…最晩年の作。バルビゾン派の集ったドービニーの家と庭を描いている。ひろしま美術館(広島銀行の経営)所蔵。
《烏の群れ飛ぶ麦畑》(1890)…絶筆。ピストル自殺(異説もあり)の3週間前に描かれた。
・ポール・ゴーガン(1848-1903)
証券会社で株式の仲買を職としていたが、辞めて画家に。同時に妻と5人の子供達と離別。
ゴッホが心を開いた数少ない友人だが、後、決別。ゴッホの耳切り事件の動機になった。
都会生活への嫌悪、文明への反逆心が強かった。彼にとって文明とは、キリスト教世界の謂いでもあった。
パリ→ブルターニュ→アルル→タヒチと移動。
ブルターニュとは、最果ての地という意。原始文明の遺産が残る、いわば野蛮の地である(キリスト教的に言えば、異教の地)。
《説教の後の幻影、ヤコブと天使の闘い》(1888)…現実と幻影の境界。
《光輪のある自画像》(1889)…平坦な色面構成。タヒチ以前の典型的様式。リンゴ、蛇はキリスト教に背く意思表示。不遜にも自身の頭上に光輪を描き入れた。(→写真3)
《アヴェ・マリア(イア・オラナ・マリア)》(1891)…タヒチでの初期作品。褐色の現地人の聖母子。タヒチにもキリストはいる。だからフランスはタヒチ(仏領だった)に口を出すな、との暗喩を籠めたとも理解できる。
《マンゴーを持つ女》(1892)…タヒチ時代の現地人の恋人テハーマナがモデル。
《市場にて(タ・マテーテ)》(同)…エジプト壁画の人物描写法を模索。
《かぐわしき大地(テ・ナーヴェ・ナーヴェ・フェヌア)》(同)…大原美術館所蔵。ボロブドゥール遺跡の写真を基に描いた。
《乳房と赤い花》(1898)…パリに一時帰国した時に開催した展覧会に出品したものの、不評。1906年、没後回顧展で高い評価へ。古典的な趣。
次週はゴーガンの続きから。
<余談>
“日本画”とは奇妙な表現だ。西洋絵画には”フランス画”や”イタリア画”という呼び方はない。
この言葉は、江戸末期から明治初期、西洋画が日本に流入してきた頃、造語された。それ以前は絵と言えば、勿論日本画でしかない。
1867年は明治維新の年であると同時に、第2回パリ万博の年でもある。パリ万博に、日本は初めての出展をした。但し、江戸幕府,薩摩藩,佐賀藩のそれぞれが独自に参加するという形を採った。その万博でジャポニスム熱が沸騰。つまり国際的な文化交流は、西と東で同時に起ったのである。
同じ頃日本では”絵画”という言葉もできた。
伝統的な日本の絵と、欧米から入ってきたそれが、あまりに違う世界であった為、日本人はそれらを同じ”絵画”という言葉では括れず、”日本画”と”西洋画(または洋画)”という2つの言葉で分けて理解したのである。
この日本語の西洋画から派生した”Yoga”という言葉は、欧米でも美術用語として通用する。
但し、欧米では、”Yoga”は洋画と意味が違う。日本人が描いた西洋風絵画を限定して”Yoga”と呼ぶのである。
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