小間使の日記おもしろかった。シャブロルは沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇のような、メイドのカオスがブルジョワジーを破滅させるといったものなのではなく、カオスは寧ろブルジョワジーたちなのだな。ブニュエルだから、やはりそうなんだな。慈悲深くないバーバリアンのブルジョワジーたちが在る。そしてそれ以外にも目を向け、自然を壊す市民性のカオスも表わす。それらに目を向ける慈悲ある主人公がそこにいる。主人公の慈悲深さは娘を介護するその姿や女たらしの主人に対する軽蔑、そして犯人捜しに表される。ブニュエルは主人公の小間使においてビリディアナや砂漠のシモンのシルビアピナルを希望したが、ブニュエルのフランス時代の第一作である本作においてプロデューサーから却下され、ジャンヌモローが主役に推される。彼女なクールな顔立ちやたたずまいは主役にフィットする。感情を顔に出さず捉えどころのなさ表わし、マグリットの絵画の如し。本作の世界自体が謎に渦巻くサインがいたるところにあるシュルレアリスム絵画のよう。少女の足にまとわりつくエスカルゴに、皆殺しの天使と同じようにブルジョワジーを閉じ込めている屋敷。不思議な世界に我々は、表情を出さない主人公によって導かれる。たしかに、いつものブニュエルのように夢か現か顕すシーナリー無いのだけれど、本作の町世界光景そのものがシュルレアリスム絵画かのようなストラクチャーをしているのである。ブニュエルはフェリーニの市井感、その庶民性に比すれば、ブルジョワジーを批判しても彼の出自自体にあるブルジョワジー臭さ、よく言えば気品、悪く言えばスノッブが出てくるゆえ、なにか彼自身に向けたものにも感じられ、それってヴィスコンティにも似ているな、となる。カオス渦巻く世界は、靴フェチの主人や女好きな婿殿に表され、そして屋敷の外とを繋ぐジョゼフに、彼の発する秩序、宗教、祖国、そしてレイプ殺人に表される。出自のブルジョワジーだけではなく出自としての市民性にも、ブニュエルの批判は向けられるのである。避けられないカオスが顔を出す。外国人排斥は現在に繋がるものであろうが、それでもやはりいくぶんか改善されているはずだろうし、作品が時代設定する30年代や本作が製作された60年代の方が酷かったのだろう。ジョゼフの人間臭さが逆に、人間の負の遺産をもろに表してみせる。彼とは対照的な冷徹なブルジョワジーと対照的な隣人の大尉の人間臭さも、実はブルジョワジー然としてくるとき、ピコリとの確執もピタリとなくなり、そこに主人公の冷徹な場所に閉じこめられていること明白となる。外では、人間臭いジョゼフが恋人を抱きしめ、暴力的世界を唱えるデモに応援の声をかけている。避けられないカオスがそこにある。避けられない人間性がいつもそこに在る。
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