『しあわせの雨傘』
ヤスシがひばり姐のために川の流れのようにをつくったように、オゾンはカトリーヌのためにこの作品をつくったかのよう、オゾンのドヌーヴに対するリスペクトがゴージャスに表わされる作品である。ラスト・シークエンス、カトリーヌ姐さんは自らの“飾り壷”を輝かせ、中身がある素晴らしい人生と笑顔で歌わしおん。
倦怠を抜け、人生の輝きを知る。その内実性、普遍性、そして淫靡の暴露、オゾンらしい。こんかいは喜劇調、スコセッシがケープフィアで心理描写を細かにするではなくエンタメに徹したように、オゾンはロマン的スペクタクルに大衆をいざなう。
カトリーヌドヌーヴはポランスキーやドゥミとの活動なんかより、ポストヌーヴェルヴァーグ以降の作家たち- テシネ、ガレル、デプレシャン、カラックスetc -との恊働の方が、今となっては輝いて見えるが、オゾンもまたその輝きを生む担い手として、その磨き手のテクを存分に発揮する。ドヌーヴはその美しさを武器に、いくつになっても、女は女である輝きを我が身の自由としている。リベラルである。
P.S.
吉永小百合とカトリーヌは若手と恊働し常に現在形であることと同じである。そして、吉永と同じようにドヌーヴもやはりスター、それなりに名声が生まれてからしか組まないな、あたりまえだのクラッカーであるが。ガレルですらもナラティヴをやって映画祭で賞をとって、ドヌーヴと一緒にやれているし。ガレルはあまりスターを必要とはしていないから、夜風の匂いは意外な作品である。
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