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2026年04月06日15:59

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『アデル、ブルーは熱い色』(仏La vie d'Adele : Chapitres 1 et 2 英Blue Is the Warmest Colour 2013:アブデラティフ・ケシシュ)覚え書き


*エスタブリッシュ・ショットで学校へ向かうべくゲート開けて家から出ていくアデルが表される。家から出ていくアデルは後にも、トマとのデートへ向かうときに表される。そこには、高校生であるアデルの日常が在る。やがて変化する/成長するアデルとの対比として日常のシーンがそこに在る。アデルはやがて変化する/成長するのである。そのときの彼女にとっての非日常へと向かうのである。

*最初のクラスルームのシークエンス、ド・マリヴォーの小説が議論される。”ひとめぼれ”や”ものたりなさ”といった本作品にも結び付くキーワードがそこに在る。また、その後のクラスルームのシークエンス、「アンティゴネ」が議論され、”幼さ”や”無力”というキーワードが在る。その悲劇について、”避けられない運命”であり”必然”であることが教師から告げられる。

*ゲイバーでのキス、アデルはのぞき見するようにまん丸い瞳を横に向けキスを見ている。無垢な瞳である。まだまばらな感覚、されど生はその瞳のなか確かに在る。

*40歳で商業長編映画での監督デビューであり、遅咲きなのかなとアブデラティフ・ケシシュを調べると、アクターとしての経歴がそれまでにあるんだね、彼。ショーン・ペンの奥さんでフォーレストガンプも永遠に愛したロビンライトが主演するサスペンス”Sorry, Haters”では、アメリカに住むアラブ系移民で精神異常をきたすタクシードライバーを演じ役者としても高く評価されている(未見だけれどトレーラーを観る感じでは、9.11の後に危険視されるや迫害を受けるなどが原因でアメリカでの生活で精神に異常をきたす移民が描かれているのではないか)。監督作品で彼は”顔”を捉えることに関心を持っているとのことで、顔にはいろんな感情が表され、実存(現実存在)である人間そのものがそこには在る。表されるのである。やはりアクター的なものの考えがそこには反映されているように思う。本作品を観てると顔へのエクストゥリームなほどのクロースショット(アップ)がとても多い。”顔”を捉えている。

*実存的な志向はとてもお仏蘭西的(実存主義はサルトルによってフランスで確立)。のちにエマがアデルに哲学について話すけれど、エマは実存主義を嗜好しているようで、アデルはエマと本格的に出会う前にはもうデモに参加しているけれど、エマと出会ってからLGBTQのデモに参加するけれど、こんなアンガージュマンにおいてもやはりお仏蘭西を際立たせている。

*すれ違い互いを意識するひとめぼれが道路を渡るアデルとエマに表され、後の友人から誘われ夜のシークエンス、アデルはゲイバーからゲイバーへ流浪する。アデルは無意識に漂うのではなく、意識的にエマを探している。エマと再会、しばしの会話。エマはクラブへ仲間と行くために去る。アデルの顔、その表情にはそこではなにもなかったこと(そしてまた出会えるかどうか分からないこと)で、ものたりなさ、、哀しみが表される。

*エマは芸術には醜いものはないと言う。そう言えば、本作品の日本版やアメリカ版のポスターはアデルとエマの顔は綺麗なセンスで表されているけれど、フランス版のそれでは、醜いというわけではないけれど、綺麗に表そうとはしていないものであり、寧ろ、人間のあるがままを映し出している観がある。ふたりのぐんずほぐれつのセックスシーンも(トッド・ヘインズは『キャロル』のセックスシーンはグラフィックに綺麗に表すセンスであったが)あるがままを表している。

*ふたりがそれぞれ相手の家族と食事をするシークエンスがあるが、エマの家族はブルジョワで先進的のように表され生ガキを食べたり娘の恋人としてアデルを受け入れたり、とが在る。いくつかのシークエンスを挟んで庶民的なアデルの家族(アデルの誕生日パーリーに流れる民俗音楽から察しチュニジアかアルジェリアかそこがオリジンな観がある)では、家族もエマをウェルカム風に笑顔で応え、ふたりは横に並んで食事をしていて恋人同士として認知されているかのように家族との食事のシーン和むが、アデルの父親がエマの彼氏の話題をするとき、我々オーディエンスは隠してるんだと認知する(次の、エマがアデルの家に泊まってのセックスシーンでも声をたてないように気を付けているのが分かる)。堅実に生きることを賞賛するアデルの父親。父親は堅実に仕事をすること求めることが会話のなかで認知される。それはアデルにも受け継がれている(DNA的なものというよりも、そういった方針で、というか、父親はそのことをよく口に出しているだろうし同じ環境のなかにいれば自ずと子供もそうなっていこう)。エマは好きなことをするようアデルに冒険を求めても、アデルは現実的であり、堅実さを求めているようである。

*本作品の後の作品であるシリーズ3作となる”Mektoub”では若人の赤裸々な生活風景や性体系を表しているようであるが、本作品においてもけっこう延々と続くかのように表されるパーリーのシークエンスでもそうしたセンスが在る。また、エマの芸術家仲間が集まるパーリーではなにか、アデルのその場での居心地の悪さが観として在る。その後の教師たち同僚とのパーリーでは、アデルは宴を愉しんでいるかのように表される。

*ケシシュは思春期の気持ちを丹念緻密に描く。

*エマの芸術家仲間が集まるパーリーのシークエンス、ギャラリーのオーナーが女性のオルガズムは男性の10倍だと言う。その後のアデルを追っていくと彼女の所作、表情に、ジェラシーも10倍、哀しさもまた10倍が表される。女性の方が感情が豊かなのであろうか。

*本作品のあと、レア・セドゥの方がボンドガールにもなったりと世界的に活躍しているようには見えるものの、フランス人曰く、アデル・エグザルホプロスはテレビのショーでコメンテーターをしていてそこでの彼女のコメントはクールだと人気のようでインフルエンサーとして大きく受け入れられているようである(もちろん、女優も続けている)。

*フランス語のタイトルは「アデルの人生第一章と第二章」であり、久しぶりに本作品を観たので、忘れたけれどどこかでその区切りがあるのかな、インターミッション的に分かれているのかな、と観てくとそれはない、で調べると、エマとの生活をしていくところまでが第一章とのこと。

*邦題はアメリカのタイトル”Blue Is the Warmest Colour”から来たのかな。アメリカも日本と同じようにタイトルを劇的に変えるのか。ところで、そこに表されるブルーが意味するのはなにかな、と観てくと、アデルが出会ったときのエマの髪の毛の色かな、或いは、後半での生徒さんたちを連れて訪れるビーチのシークエンスでパラソルや海の青が印象的であるがそれかな、となるも、ところどころ青を印象的に配色しているのだけれど、感情10倍のアデルの心の色のことだろうね。アメリカでも気分がブルーと言う(というかアメリカが発祥であろう)。エマとの生活は幸せいっぱいだけれど、パーリーなどアートの世界にいることで居心地の悪さは表情に在るし、それはラストの展示会におけるシークエンスにおいても在る。もちろんエマと離れたあとはその色は在る。

*通過儀礼的なものであるが、ケシシュはアデルは強くなってこれからも生きていくと言うが、恋病で死ぬまではないだろうけれど、ラストの後ろ姿は様々な彼女の姿を思わせ、果たしてそればかりかなと私的には思う。恋をすればそれが終わったらヒトは強くなるという法則があればそうかもしれないが、そういうものはないだろう。されど、ひとつの経験が彼女に在った。それは哀しくも温かなもの、という英語タイトルにちなんで想うと、”生”があったことは確かに告げられる。





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