89年1月7日、昭和天皇が崩御、翌8日から新元号「平成」がスタートしました。新日本プロレスでも喪に服して1月7日川崎市体育館、8日後楽園ホールの2大会の開催を自粛、延期しています。
平成に入り、新日本プロレスは前88年3月にオープンした東京ドームでの興行開催4月24日に開催することをぶち上げました。当時の新日本プロレスは両国国技館ですら中々満員に出来ない状況にあり、無謀と言われたものです。
しかし、蓋を開けてみれば4月24日に行われたプロレス界初の東京ドーム大会「格闘衛星☆闘強導夢 プロリンピックPART1」は月曜日開催という決して恵まれた条件ではない中、53,800人(満員)の観客を動員、プロレスの持つ潜在的な底力を見せつけました。
小林邦昭さんは前14試合中第12試合に登場、永井豪のアニメから誕生したマスクマン、獣神ライガーのデビュー戦の相手を務め、9分55秒、ライガー・スープレックスホールド(獣神原爆固め)にフォール負け、ライガー売出しの為のジョバーになりましたが全身コスチュームというライガーとしての初日だけにライガーの良さを上手く引き出しました。
89年は旧ソ連から来たショータ・チョチョシビリ、サルマン・ハシミコフ、ビクトル・ザンギエフ、ウラジミール・ベルコビッチといったレッドブル軍団が活躍、海外遠征から度々単発で帰国していた橋本真也、蝶野正洋が日本に定着。
ジュニア・ヘビー級路線では小林邦さん、越中詩郎がヘビー級に転向、ライガー、佐野直喜らがIWGPジュニア・ヘビー級選手権を争い小林邦さんはライバルに恵まれず中堅のポジションに甘んじていました。
転機が訪れたのは92年1月、 91年12月8日後楽園ホール大会で事件は起きました。
新日本プロレスのリングに上がっていた誠心会館館長、青柳政司とタッグを組むことになっていた小林邦さんは、控室で誠心会館の門下生のドアの締め方が気に入らず注意しました。だが、門下生は生返事をしただけで反省するそぶりも見せず、怒った小林邦さんは門下生を殴って13針も縫う大ケガを負わせました。誠心会館はこの報復として8日後の12月16日大阪府立体育会館大会で小林邦さんを襲撃。年明けから全面戦争に発展しました。
92年1月4日の東京ドーム大会で、誠心会館の齋藤彰俊が門下生を引き連れて新日本プロレスに殴り込みを宣言。
「ファイティングスピリット92」開幕戦の1月30日大田区体育館で小林邦さんと彰俊が異種格闘技戦時間無制限1本勝負で対戦、この試合はメインイベント終了後のエクストラマッチとして行われ、小林邦さんは「プロレスではなく喧嘩だから見たくない人は帰ってもいい」とコメント。
新日本プロレスのリングに久しく感じられなかった殺伐とした殺気が戻ってきたと大田区体育館はこの一戦を目当てに4,000人(超満員発表)の観客が集まりました。
試合は倒して関節を取りにいこうとした小林邦さんですが逆にマウントを取られて正拳の連打を浴びて額から流血、7分10秒、レフェリーストップ負けを喫しました。
新日本プロレス側は越中が小林邦さんに付き、小林邦さんと彰俊の再戦が4月30日両国国技館で行われ、小林邦さんは引退を、彰俊は誠心会館の看板を賭けて、「レフェリーストップ、ドクターストップ、TKOによる決着なし」の特別ルール時間無制限1本勝負で行われ9分25秒、小林邦さんが腕固めでギブアップ勝ち、プロレスラーの強さを見せつけました。
大流血の末、敗れた彰俊は「死んでも死にきれない」と号泣、勝った小林邦さんは奪い取った誠心会館の看板を見ながら「この看板を見て思ったけど…相当古いもんだな。これを取られたら魂を抜かれたも同然でしょ」と闘った者にしかわからない感情を持ったようです。
翌5月1日には千葉ポートアリーナで越中と青柳が対戦、12分1秒、越中がドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)でフォール勝ち。
全試合終了後、現場監督の長州は「看板、向こうに返してこい、礼に始まって礼に終わるだよ。これは情じゃない。昨日今日見てあいつら素晴らしいと思ったよ。そうだろ?」と小林邦さんと越中に指示。
2人は直ぐに誠心会館の控室へ看板を返しに行きましたが青柳は「お前達を倒すまではもらえない」と拒否しました。
その後彰俊が看板を新日本プロレス本隊の控室まで返しに来ましたが長州は「お前、本当に素晴らしい格闘家だな。お前達には、こっちが教えてもらうことが多かった。本当だ、結果なんて関係ない。マスコミだって認めてるよ。お客だってわかっているだろうし、それでも納得いかないなら(新日本プロレスの)中に入ってやってみたらどうだ?闘う相手はいくらでもいるぞ」という言葉をかけ、彰俊は涙を流しました。
控室にいた新日本プロレス本隊の選手から拍手が起き、誠心会館との抗争は一件落着したように見えましたが…。(この項続く)
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