間宮兄弟とマルサの女おもしろかった。のようなものを観てから時間が経っていないので、のようなもののようなものに見える。兄弟のじゃれあう映像にかかるふたりのなにげない会話のこもったダイアローグ、今ではユーチューバーが使うような、動作にかかる効果音、夜にふたりで走る自転車の東京はしんととが夜に東京を歩くのにも似てるムード、など、のようなもののようなもの表される。そして家族ゲームの崩壊しかけている家族と違った、ゆるやかだけどかたい絆の家族愛、そういえば、中島みゆきは秋吉久美子に代わる存在のように表されているな。のようなものはピアのプラスティック感覚とガロの泥臭さが交じり合ったようなセンスであるが、こちらは雑誌Penにブルータスとクイックジャパンがスパイスされながらも決して同人誌にはならない構えである。趣味志向ながらもプロはプロだぜ的職人性を質に表している。一方で、プロらしく計算されたものが個性をなくさせている感じもする。マルサの女、小林桂樹まつりで、そろばんずく、あの夏の日〜とんでろじいちゃん〜へと続く第一弾である。ラストのハンカチに書かれるゆびきりげんまん血だらけ暗証番号、まさにカサブランカのような、新しい友情のはじまりである。お国とアンチお国が手を結ぶ。リベラルも右翼も、一緒に仲良くやろうという問いかけか。この時代は景気もよくお国への不信感も薄らぎだしていたのであろう、一億人総ハクチ化に拍車がかかる。ロンとヤスも握手に拍車がかかる。不沈空母、沈没寸前。そんなこんなでも、イデオロギー関係なくバブリーな埋蔵金は許されぬ。許されざる者、山崎努体現化する権藤は子供からも愛され子供も愛する、ドリームランドを夢見るドリーマー。対するマルサは夢を見させぬ現実主義を課す。人間的本質が抱える矛盾を魅力的に表す。ハレとケの間に浮かぶ逢魔が時を伊丹は、葬式にしても大病人にして表しているが、それはたぶん、彼のテクスト群においていつも表されているものなのではないか、となる。森田はそろばんずくでバブリーな会社闘争を、大林は異人たちとの夏で、トレンディーなカフェバー社会と対比させるノスタルジーで、この時期を表しているが、伊丹は禁止を厳粛に説教してるではなくやはり夢のカタチとして、バブルを視せ聴かせ感じさせる。小林桂樹まつりの第一弾、おもしろかった。そろばんずくとあの夏の日、観るかどうかはまだ不明である。
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