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2018年06月08日16:55

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ギャング・オブ・ニューヨーク


『ギャング・オブ・ニューヨーク』
 ヴァロンが眼を開き、そしてビル・ザ・ブッチャーが眼を閉じるまでのアメリカを描いた叙事詩である。眼を閉じても世界は変わり続ける。アムステルダムは生き続けている。ラスト・クレディットの末に表されるストリートの音、アムステルダムが認識していくアメリカが表されている。世界は無常のもの。
 ユダはいつも生きている。スコセッシのいつもの世界である。アムステルダムはマルラニーとマクグロニンと同じように裏切り者、ミーンストリートのジョニーボーイと同じように、ユダの贖罪を負っている。以前観たときのスコセッシがいつも表すような強迫観念を今回はあまり感じられなかった。今回はヴァロンの息子としての通過儀礼的なものが表されること強く感じられる。その世界には姿形を変えながら無常のモノとして在り続ける贖罪がいつものようにあるのではあるが。
 女性を虐げる父性的存在に対する怒りがいつものようにスコセッシに表される。この作品では、ジェニーのお腹の傷に触れ、その後にアムステルダムが飛ばすナイフにそれが表される。己の世界を築き上げようとしながら愛の確執に蠢くものはスコセッシにいつも表されるマイケルパウエル的な情動であり、それがビル・ザ・ブッチャーに表される。父性的存在がつくりだす世界観と己の気持ちの狭間を揺れながらも闇に模索しひとつの方向に向きだすものはスコセッシがいつも表すエリアカザン的信念であり、それがアムステルダムに表される。しかしそれはヴァロンという存在を仲立ちしながら、ヴァイスヴァ―サにビルとアムステルダムに表されるものでもある。
 グリフィス信奉のシネフィルぶり、後々のDVD化を志向した凡庸な胸から上ないし膝から上のショット=リヴァース、またスペクタクル向きではないスコセッシを露呈したような作品であるが、モンタージュはさすがスコセッシである。それでもやはり、面白さある。いつもの内省的ワイルドネスと違い、当時のオルタナ・シーンに合った階級なき社会への希求が表される。




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