『野のなななのか』
関係者への謝辞はインディーズ的なフォルムの入り口、そこにはエナジーとても表される。みんなの力の結晶的な、素敵さ。松竹の富士山のオープニングには感じられないものがある。そして、そこからうつさるる。変化は動きであり、ムーヴである。それは移りである。しかし、そこには一貫した写りがある。写す=移す、そして映る、は『HOUSE ハウス』からずっとある大林的伝統行事。対象があるのではなく記憶としての対象があり、その対象のなかに映り込む。それがムーヴだ。生きるとはそういうことであり、大林テクストはそれをうつしている。クルクル回る対象の万華鏡、気持ちはまっしぐらにあるもの、変わりない。一貫した愛あらわされる。過剰な、他者への慈しみである。
P.S.
大林のテクストに表されるナレーション、いつも入るタイミングいいなと思う。2度目の方がやはりもっと理解でき分かりえるものとなる。冒頭から、それぞれのシークエンスに表されるものはまるでエンディングかのようであり、ラストシーンが続いていくエンディングノートのような作品に感じえる。しかしながら、過去も潜在する現在進行形が表されることはその写真性、映画の特徴なのでありその通りで有りでも、ここに表されるメッセージ的なものを言わんとする姿勢、それは現在の内に在る過去というよりも、現存在である人の生き方が表されるものとして有ること、とても想いうる。過去への執着や哀愁は遥か彼方となり、いま此処において、生という裸の事実が自己に問われる。出来事とは私たちの場にあること、私たちは体験している。
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