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2017年05月12日22:51

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Ricky リッキー


『Ricky リッキー』
  ご存知のように、竹内力を描いた映画ではない。
  リッキーが去る姿が、消え去るサンボリズムにも見える。オゾンはシンボルを消すことを決してすることはできないのだけれど、この作品全体を通じて彼のその願望が伝わってくる。ブルジョワジーを批判しながらもブルジョワジーに寄り添うのがいつものオゾンであるように思える。されどさにあらず、ブルジョワジーや中産階級の意識を切り裂きジャックするというよりはオゾン、個の倦怠を露わとさせるなかでヒトにとっての日常というものは何かを語らしおん。
  写実的に日常生活が捉えていく。カティ、そしてリザの日々が淡々と捉えられてゆく、その生活風景。やはり、トラボルタが出るベイビートークとは違う。この写実性、シネマ的。40分が過ぎ、たぶん多くのオーディエンスがこの作品に期待するファンタジー、ようやく表わされてくる。アンブリン- ゼメキス、クリスコロンバス、そしてスピルバーグ –的音楽も表わされる。そしてファンタジーあらわされると同時に、疑いが生まれるトポスがその家族社会となる。疑いが不現前を生むこと、オゾンの真骨頂である。
  娘が感じる疑いが母に伝染る、ということではなく、ヒトはそうした者であること。見えないものがあると、多かれ少なかれ、疑念を抱く。父親は去り、息子は飛び、の大騒動。ポピュリズムのネガティヴなところが出る。無責任な関心や好奇心は家族を煽り痛みつけ、興味がすぐになくなると大衆の頭の中は藻抜けの空。リッキーは大衆心理なんてお構いなしに旅ゆかば。
  残された個は不確かな救済を追い求め彷徨う。カティは彷徨う。母親に表わされるのと同じように、空を飛ぶリッキーにも彷徨いが表わされている。泉に入るカティ、死とバプティズム、欧羅巴的なる洗礼が垣間みられる。
  テクストの時空間、やがて訪れる終盤において、ハレルヤな晴々としたものが到来する。崇高な場所としてのシアターにおける時空間、スッキリとする。これには、私的に唸った。
  苦しいように思える世界のなか、家族はクリミナルな輝きの世界に在るあるがままを知る。リッキーは、エンジェルか内なる悪魔か、そのシンボルは消え去ることの到来に願望される。なんだか、テオレマのよう。オゾンはきっとパゾリーニは好きであろう。ふたりともふたりしてソドムっているとこある。
  思えば『クリミナル・ラバーズ』で表わそうとしたことはこのことだったのかなと思う。『ホームドラマ』はアルモドバルもどきだったけれど、その後のオゾンの展開は、疑惑の影に苦しめられながら常に、そしてそれと同時に、クリスタルの生の輝きを表わさんとするように思える。せらゔぃ、オゾンの人生観がそうに思える。




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