ハネケは「スペクタクルの社会」を継承する。ハネケが表わすメディア- それは概して映像 –は、物語世界(或いは、映画内現実)のなかに組み込まれはせず、我々の側にいる。我々は状況を客観する。感覚は視て聴き実践されるのである。それはそして、メディアの権力を反省させるものとしても我々の側にある。権力はそれだけではない。欧羅巴イデオロギーとしての人権もまた表わされる。スペクタクル社会に在るそれは社会を構築しその存在意義を認めるものとして現されると同時に、他者を排除するものとしても考察される。
一方、スペクタクル社会批判を継承するハネケに対して、アルモドバルはポストモダニズム的でしかない。実践は促されず、表象が取り巻き渦巻く社会を憂いもって描いているのである。ただし、アルモドバルが表わす「哀しさ」は、「メランコリア」というよりは「疎外」から生じるものである。例えば、フォントリアは不可解なものであるメランコリアを表わし、それには欧羅巴の精神的な継承が表わされるけれど、アルモドバルは社会的イシューである疎外に繋がるものとしての哀しみを現す。よって、Movidaが生んだ作家らしくアルモドバルには、生の解放をあらわさんとする姿勢があるのだ。
と、今日なんとなく思った。
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